人の恨みが募り募って鬼火となるのなら、こういう色をしているのだろう――自分を見上げるの瞳を見下ろして、肋角はそう思った。





死にかけの人魚がそうするように、はベッドに倒れこんで、来訪した肋角を目だけで見上げた。視線が合うと、引きつったように口角を持ち上げる。

は無意識であろうが、その苛むような視線から肋角はそっと目を背ける。
仕事柄そういう視線には慣れているはずなのに、のそれは普通ではなかった。幽霊よりも生きている人間の方が恐ろしいなどというものがあるが、ちゃんちゃらおかしいと肋角は思う。亡者ももとを正せば“人間”だというのに。

は、肋角が現世での任務途中で出会った、なんの変哲もない人間だった。ありふれた、どこにでもいる人間の“はず”だった。

「肋角さん」

遠くでは雷鳴が喉を鳴らしている。日は暮れ、空には曇天が立ち込めていた。灯りのついていないこの部屋の中は全てが闇色に染まっているのに、の肌は朧に浮かび上がっている。酷く甘ったるい声は、下手な煙草よりも耽溺性があった。

肋角と出会ってから、は恐らく、正しく生きることをやめてしまった。
食物を口にすることが肉体への滋養となるように、他者との交わりが人の心を枯らさずに保ってくれる。でも、今が求めている交わりは肋角とのものだけで、肋角がそれを拒み続ければ、はいずれ死んでしまうのだろう。それが少しだけ空恐ろしくて、肋角は今日も、この部屋に足を運ぶ。

いたいけな恋心を体中に膨らませて、のそれはもういっそ本能だけの獣に近い。ただただ肋角の心に爪を立てては、わけのわからない感情のままに相手を求める。どす黒く混ざり合った感情の奥底に、赤く染まりすぎて変色した恋情がわずかに滲んで見えた。

静かな部屋に、ふいに鼻を啜る音が響いた。見ると、がベッドの上にうずくまってしくしくと泣いていた。どんなに覇気のない表情をしても、決してその目から涙を流すことはなかったのに。肋角は目を見開いた。

「…何がそんなに悲しい?」

動揺して反射的に伸ばしかけた指先を、肋角は落ちついて拳の中へ握りこんだ。やはりが絡むと、肋角は優れた獄卒ではなく、ただの凡夫になりさがってしまう気がする。この人間に接する時は、幾重も心に鍵をかけて、少しの間違いもないようにしなければならない。斬島たちにそうするのとは訳が違うのだ。
肋角の問いかけにも、は首を振るだけだった。

「わかんない、わかんないよ…」

胸をかきむしるようにしながら、は本当に困った顔をした。それでも、視線ははっきりと肋角を射抜いていた。それで肋角は、全てを察した。

の持つその感情の正体を教えてはいけなかった。は、生者なのだから。いっそ聞こえないふりをしてしまいたいが、それではあまりにがかわいそうだと思った。肋角はただ黙っての呟きを拾いあげた。

「肋角さん、教えてよ…」

長い髪が白い顔を覆って、まるで幽鬼のようだった。初めて出会った頃のほがらかな姿が嘘のようだった。穢れを知らないまま、ちょうど頭を垂れる百合のように弱々しく、どこか死の匂いを纏っている。それが妙に、匂いたつような馥郁とした色気を纏っていた。
そう仕立てあげたのが自分だとわかって、肋角はなんともいえない気持ちになった。は恐らく、もう“少女”ではなくなってしまったのだろう。

肋角が一歩踏み出すと、2人の薄い影だけが微かに触れ合った。小さな体を見下ろして、肋角は静かにを諌めた。

「…なぜ教えないか、わかるか」
「…?」
「俺が鬼だからだ」

は眉をしかめて不可解そうな顔をした。しかしふいに表情をかき消して、扇のような睫を伏せた。よくできた人形のようなその様が、ぞっとするほど美しかった。

「ねえ、」

おもむろに伸ばされたの指先が、肋角の指に触れた。
冷たい感触に、肋角は咎めるのも忘れて一瞬息を詰まらせた。

、」
「いいの。私、肋角さんのこと、なんでか恐くないの、鬼だって、全然思えない」
「…、」
「こんなに辛くて、頭がおかしくなりそうで…ねえ、教えて。鬼だって構わないから」

心の中で、肋角はを酷くなじった。
加減を知らない自分を、小さな彼女へ振りかざしたくはないと自制しているのに。

ぴかり、と窓から遠雷の光が漏れた。の真っ白な顔に色づいた赤い唇が幽かに浮かびあがると、肋角は全身の毛が逆立つような気持ちになった。

「…ねえ、私を置いてゆくの?」

縋るような声。肋角は目を瞑り、掌に這いつつあったの手を押しのけた。
はあ、と息を吐き出したのは、自分が正常な判断を下せたから。まだ大丈夫だと思えたからだ。

苦い思いを喉奥に感じながら、肋角はに背を向け、部屋の外へと向かう。
が必死に後を追ってきているのがわかった。

「ねえ、待って肋角さん、お願い」
「…」
「ごめんなさい、もう言わないから、また来て、ねえ、」

弱々しい懇願を最後まで聞くことなく、肋角は部屋を後にした。

外に出ると、雨粒が一滴、肋角の帽子の庇に弾いた。
多分、はあの部屋で肋角を待ち続けるだろう。悲痛を滲ませて引きとめる声が、今日はやけに耳に張り付いている。

帰ろうと踏み出したのに、うなだれるの姿を思い出すと、肋角の足は次第に鉛のように重くなった。
の白い腕が肋角の首もとへ絡みつき、引きとめているようだった。肋角の体がぴたりと止まる。首を振る。今日はおかしい。も、――自分も。

「…、」

はあ、と白くなる息を吐き出して、肋角は稲光の見える遠くを見据えた。

――絶対に、暴いてはいけない肋角の秘密。
ただ鬼火のようにゆらめくの瞳が己を見ることに、自分にだけ全てを曝す無垢な姿に――この上なく後ろめたい喜びを感じている。

が自分だけを求める。肋角のために作りなおされた体が、心のそこから服従する。そんな彼女が愛おしくてたまらない。
そうしている瞬間だけ、閉じられた世界に2人だけでいるような気がする。何もかも手放して、彼女を支配して、飼い殺してしまいたい。

開けてはいけないパンドラの匣。
ただひとついうのならば、肋角はその中身を知っている。





――だが、それを開けてしまうのが、肋角だけとは限らない。
遠くで、雷の落ちる音がした。










意気消沈したまま、は雨が降り出した窓の外を見つめた。
そもそも現世ではないところに住む肋角だ。外など見つめたっているわけがない。そんな馬鹿なことを考えて、再びじんわりと涙が滲んできた。疲れ果て、自分の心が肉体より少し上で浮いているような気がした。

――これは、なんなんだろうか?
誰にも向けたことのない、熾烈な感情。お陰でうまく自分の気持ちを操れない。肋角が現れると、それは一旦ぴたりとやんで、けれどもすぐに、勢いを増して重来する。
膨らみ続けて破裂しそうなそれに、あの広い胸を拳で叩いて、わけのわからないまま叫んで八つ当たりしてしまいたくなる。憎しみにも近いけれど、それとはまた、違う気がする。

突然、ばたん、とけたたましく扉が開く音がした。はそちらへ目を向け、息を呑んだ。

そこには、酷く雨に降られた肋角がいた。
庇の下からのぞく赤い瞳が、暗い室内で妖しく揺れて光る。目を見開いた拍子に、の瞳から雫が零れ落ちた。

「肋角さん、」と呼ぶ声は、降り出した雨の中へ消えた。










無数の銃弾のように、容赦なく降り注ぐ雨の中。道に咲く花も、雨粒に打たれて砕け落ちる。
気がつけば、肋角は少年のように無我夢中での手を引いて走っていた。が抵抗しているのか、それともついてきているのかも定かではなかった。行く宛てなど当然なかった。

全てのものから逃げ出してしまいたかった。自分の中に渦巻く感情からすら。

散々走って、2人は神社に程近い、大きな木の下までたどり着いた。少ない葉の隙間から滴る多量の雨粒が、粗末な自鳴琴のようにうるさい。

「肋角さん、…なんで…」

息を切らしながら、は呆然と肋角の赤い瞳を見つめた。
肋角の胸が酷くざわつく。白い肌が婀娜っぽいのに、不思議そうに見上げる瞳だけは無垢だ。叩きのめしてやりたいと思うくらいに。

自分の心が乱れるのを、いつものせいにした。いくつもいくつも、このなんの罪のない少女に、心の奥底で行き場のない感情をぶつけた。
――会わなければいいじゃないか。
――忘れてしまえばいいじゃないか。
そう冷静に忠告する自分の気持ちを、見ないふりをしていたのは誰でもない、肋角だった。言い訳を重ねては、彼女の影へ近づいた。

本当はずっと、この時を待っていたくせに。白々しい。肋角は自嘲した。

ねえ、とか弱く啼いたの声は、打ち付けるような雨の中へ消えていく。
自分の中へ取り込んでしまうかのようにを腕の中へ閉じ込めて、肋角は震える息を吸った。焦りなのか昂ぶりなのかはわからない、獣のような動悸。

を前にすると、愚かで浅ましい欲が出る。
おかしくなりそうなどとが言ったが、それは肋角とて同じだった。この感情は人を堕として駄目にする。ふとした瞬間、彼女を掌中へ閉じ込めてしまいたいと思う自分がいた。それに気づいて、自分にもこんなにも激しい感情があったのかとぞっとして、肋角は何度も己を戒めた。

けれども、飼いならすための首輪は、存外容易に外れてしまったらしい。
激しい感情を、今は気味の悪いほど諦観していた。――もうどうしようもないならば、せめて殺してしまわぬように、彼女を愛してやりたい。

「肋角さ、」
「もう、何も言うな」

肋角が鬼なら、はあやかしだ。肋角を惑わすことだけに長けたあやかし。薄く開いた口から、やけに赤い舌が誘うように覗いている。そうやってまた、のせいにした。

の言葉をさえぎって、肋角は苛立ったようにの唇を攫った。の耳に、一瞬だけ雨音が届かなくなる。離れていくかさついた唇を目で追って、はそっと瞼を下ろした。

肋角とが、激しくなる雨にまみれていく。
生ぬるい雫に紛れて溶けていきそうな頬をさぐって、肋角はの温度だけを探す。途中でわずらわしくなって、なりふり構わず帽子を脱ぎ捨てた。ぺしゃり、と打ち捨てられた帽子の音が、自分の矜持すらも泥に落としたように思えた。煙管の匂いが混じった粘液が、卑しくもの唇を侵していく。彼女のおぞましさにかこつけたそれは、冷静ぶっていても正常ではなかった。

息もつかせぬほどに唇が交じり合って、そのうち狂気すら孕みそうな歓喜の吐息だけが零れ落ちる。麻薬のようなそれと、無骨な指のかさついた感触に、供物となったは黙ってされるがままだった。
膨らむ感情に、の体が震える。あの問いかけの答えを、肋角の口から聞くことはなかった。けれども今、確かに感じている。その答えを。
恐らく望んでいたこの時を、はぎゅっと瞳を閉じて受け止めた。狂おしいほど内側で暴れだす感情を、時折ただ肋角の唇へぶつけた。それだけで、胸の痛みが、甘やかなものに変わっていく。

やがて幾度目かの口づけを離した時、ふたりの目がかち合った。全てを決壊させた互いの瞳は、魂でも抜け落ちたかと思うほど、いっそ恐ろしいくらいに穏やかだった。

――ふたりの目の奥に映る色は、本当はただ同じ色をしていた。もう、ずっとずっと前から。

見知らぬ最果て、白く濁ってけぶる雨に、2人の姿がかき消されていく。
赤く小さな鬼火が2つ揺らめくと、2人の姿は跡形もなく消えていた。





The Orbs.