暖かい春の日、昼前にスーパーに向かったは、帰宅せず、その足でZ市郊外にあるアパートに向かう。
ある一室の前でチャイムを鳴らし、少ししてから出てきた住人に顔をほころばせて「こんにちは」と挨拶した。
住人、サイタマは、寝起きであるのか常であるのか分からないぼんやりとした瞳で、を見つめた。

「サイタマさん、パンはお好きですか」
「パンに好きも嫌いもないと思うけど好きだ」
「よかった。それから今日はお暇ですか?」
「……あー、うんまぁ」

今日も、という言葉がサイタマの頭の中でちらついた。

は「ならお花見しませんか。近所の公園の桜がすごくきれいだから」と言った。
特にの誘いを断る理由もなく、サイタマは2つ返事をした。

靴を履いたサイタマが鍵をかけるのを見届け、2人で並んで歩き出す。
正午近くの日差しは穏やかで、サイタマは大きく口をあけてあくびをした。
白い光に、の春色のスカートの裾がゆらゆらとゆれる。

「あのさあさん。この辺危ないからさ、連絡したらこっちから行くよ」
「でもサイタマさん、携帯もってなかったですよね。それに手紙だってあそこは届かないし……」
「……」

サイタマは押し黙った。は思わず眉根を寄せて「もしかして、ご迷惑でしたか」と聞いた。
「ああいや、違う違う」とサイタマは即座に否定する。来るなということもできないし、そもそもがたずねてくるのはささやかではあるがよい刺激だったので、サイタマはこの話を切り上げた。
が来なくなったらと思うと、少し寂しい感じがするのだ。

「そういや、何でパン」
「ああ、今集めているんですよね」
「集めてるって何を」

はぱっと顔を輝かせると、ショルダーバッグから一枚の薄い紙を取り出した。
そこには、0.5点や1点と書かれた丸いピンクのシールがぴっちりと張られていた。
シールの下には「点数シール25点分でかならず1枚さしあげます」という文章と共に、皿の写真が映っていた。

「今日買った分でちょうどもらえるので」
「ふーん。いつもやってんの」
「ええまあ。というか、うちの母も集めていたので、これ」

「春になるといつもよりよく食パンを食べてました」と言って、は紙を再びしまいこんだ。

「せっかくだから一緒に食べましょう。誰かとお花見もしたかったんです」
「確かにいいかもな」

サイタマはわずかに微笑んだ。花見もいいし、何よりが幸せそうに微笑んでいるのは、見ていて気持ちがよかった。
わずかに足取りを軽くしながら、「ふふ、サイタマさんに会ったときも、このシール集めてたんですよね」とは笑った。

「ああ……そういや仲良くなったの春だったな」
「そうです。サイタマさん覚えていますか。私その時も、パンを食べていたんです」
「覚えてないな……さすがに」
「でしょうねえ」

サイタマが首をひねって記憶をたどるも、出てくるのは今のように微笑むだけであった。
桜も咲いていたと思うのだが、が何をしていたかとか、どんな状況であったかということは覚えていない。
ただ、ヒーローとして活動していたサイタマと一言二言言葉を交わしたの、唇のつややかさだとか、春の日差しが映りこむ瞳だとか、今より短い髪が淡い色の頬にかかっていたのは、生々しいくらいに覚えていた。それはまるで1枚の絵画のように、静かに、しかし強くサイタマの頭に焼き付いていた。

なんとなくそれを思い出したサイタマは、気恥ずかしくなって頬を人差し指で掻いた。もそうなんだろうか。そう思うともっとむずがゆくなったし、自分はどんな風に見えていたんだろうかと少し疑問にも思った。

隣を歩くが、ぱっと顔を上げて前方を指差す。

「ほら、サイタマさん、きれいでしょう」
「ああ、本当だ。すげーな」

豪奢ともいえそうな桜が、しがないちっぽけな公園に咲いていた。
桜だというのに、それはとても生命力にあふれているように見えた。

無人の公園に入り、ベンチに降りかかっている花びらを軽く落としてから座る。
は「飲み物買ってきましょう。何がいいですか」とサイタマに聞く。

さんと同じのでいいよ」
「私サイダー飲むつもりなんですが、大丈夫ですか」
「ああじゃあお茶で」
「はいはい」

軽く会話を交わしてから、は笑って自販機に駆けていく。
サイタマはパーカーのポケットに両手を突っ込みながら、満開の桜を見上げた。
ここの桜はなんとなくに似合うな、と思った。

戻ってきたはペットボトルの片方をサイタマに渡し、ベンチに座るか座らないかで自らのペットボトルのふたを開けた。わずかに炭酸の抜ける音がする。
が期待で小さく足をばたつかせているのを横目に、サイタマはパンの入ったビニール袋をあさる。

「何なら食べていいんだ」
「何でもいいですけど、あっ、これは私の」
「ほい」

は一度ペットボトルを脇においてから、菓子パンを受け取り、封を空ける前にピンク色のシールを剥がした。
サイタマも惣菜パンを手に取り、空ける前にシールを剥がす。

「これ……」
「ありがとうございます」

の細い指が、シールをつまんだサイタマの指に触れる。触れた指先に、針にさされたような痺れをわずかに錯覚して、サイタマは少しだけ驚いた。
はご機嫌な様子でシールを貼っている。
その顔を見て、サイタマはまあいいや、とその痛みを意識の隅においやった。

がパンにかじりつきながら、きらきらした目で桜を見上げる。
サイタマもパンをもごもごと咀嚼しながら桜を見上げた。

大きく鈍い風が吹き、花びらが舞い上がる。の伸びた髪が、彼女の横顔を少し覆い隠してからあらわにする。
サイタマはそれを見てなんとなく、来年もと花見をしたいな、と思った。





――これはまだ、サイタマがヒーロー名簿に登録する前の、穏やかな春の日のことである。