私の研究室、チョコレートの香りがするんです、とは言った。

「…チョコレート?」
「そう。最近入ってきた研究生で1人…男の子なんだけど、甘いものに目がなくて、特にチョコレートが好きなの」
「ほお」

人間界の新聞を開きかけた手を止め、肋角は自身の腰掛ける天鵞絨のソファの背もたれに座るを振り返り見上げた。
はいつもの研究室帰りの白衣姿に、薄い化粧のさっぱりした顔立ちで、肋角を見下ろして悪戯っぽく笑った。昼下がりのの部屋は薄い闇に包まれ、その顔立ちがどこか艶めいて見える。

「しかもその子、肋角さんに少し似ていてよ」
「…俺にか」
「そうよ、そっくりよ」

ふうむ、と肋角は興味深げに煙管をふかした。自分に似ている、とは、どんなところがだろう。部下の獄卒たちと違って、肋角は人間の形をしていても、目立つほうだという自覚があった。それならば、中身だろうか。肋角は首を捻った。
正解を教えてやるとでもいいたげに、は人差し指を立て、指揮でもするかのように振った。

「肌が浅黒くて、背がとびきり高くて、低い声の寡黙さんなの。年は下だけどね、見るたびいつもあなたを思い出すの」

は歌うようにそういうと、研究室に漂うというそのチョコレートの甘い香りを思い出し味わうかのように目を閉じた。その横顔をじっと見つめ、肋角はふいと視線をそらした。
なんでもないこととはわかりつつも、胸の内によくない芽が顔を覗かせている。

「…そうか」

ばさりと新聞を広げ、肋角は煙管を口から離し、の淹れてくれた、少し冷えたコーヒーをすすった。
2人の間にあるのは甘ったるい香りではなく、苦く香ばしい香りだった。





Chocolat.





2人が出会ったのは、いわく、現世で強い執念を持ったままその地を離れられずにいる幽霊事件でのことだった。当時理数系の学科にいた学部生のは、幼い頃から霊的なものに敏感で、すぐ変な匂いがするとか、キーンという高い音がするとか、その場所は気味が悪いとか、そういったことを口にしていたらしい。

人間にまぎれて活動することもある獄卒は、にははっきりと見えたらしい。普通の人間であれば、見えても認知はできない。知り合っても、おぼろげにしか記憶が残らないようになっている。しかしは違う。いわば鬼灯の内側にある実のように、獄卒の魂の形――本質と呼んでもいい――をそのまま見抜いたのだ。そして獄卒たちの手に負えるかと実地調査のために特務室から腰を上げた肋角を、は見つけた。

そういう人間は、もちろん珍しくはない。数は違えど、長く生きている間、そういう者達と出会い、交流してきたこともある。
しかし、だけは違った。あえて何が違ったかといえば、を見る、肋角の心が、とでもいえばいいのだろうか。

の協力もあり、その後肋角は無事大学内で研究のいざこざに巻き込まれ自殺した女性教授をあの世へ送還することができた。憑依体質でもあるには幾度も危険が及んだが、その度に肋角が祓い、護ってきた。肋角の心構えだけが違ったならば、禁欲的で厳格な彼のことだ、事件を終えてすっぱりと縁が切れるはずだった。だが違った。の心も、共に過ごす間、少しずつ繭のように形を変えて行った。

「好きよ、肋角さん」

普通の人間とはどこか違う2人の間へ、密かな感情が生まれるのに、そう時間はかからなかった。





その日は朝から蒸し蒸しとした雨が降っていた。
雨の中帰ってきたを迎えた肋角は、軍帽の下で僅かに眉を顰めた。

「…
「なあに」
「君は煙草を吸っていたか?体に毒だぞ」

自分の吸っている煙管とは違う、安物の大衆煙草の匂いがする。
いつものは、消毒液のような、どこかツンとした匂いに、彼女らしい柔らかな白い小花の香りがするというのに。

「…ああ、確かに匂いがするわね。ヤダヤダ」

そういって、は千鳥格子のコートの袖に鼻を近づけ、顔をしかめた。ぱちぱちと長くなっている睫が震えて、目を引くような赤色の唇がやんわりとしなる。
コートを脱いでハンガーにかけながら、はなんでもないようにこう言った。

「例の後輩くんと、あすこの喫茶店であれこれおしゃべりしてたのよ」
「…そうか」

“例の後輩くん”とは、以前話していた、肋角に似ているという研究生のことだろう。
のいう喫茶店にも、肋角は心当たりがあった。霧子の通う大学近くにあるこじんまりとした学生価格の店だ。かわいらしい花のステンドグラスに、緑色のデスクランプ。ゆったりとしたジャズが細々と流れ、若者がふかす紫煙で薄暗い視界が白んでいく中を、黒いワンピースの学生らしい若い女給が気だるそうに歩いていくのだ。

以前にも二人で行ったことがある。事件の作戦会議だってそこで行った。初めてのデートでそこに足を運んだ時、肋角はウィンナ・コーヒーを、はクリームソーダを頼んで、ゆっくりした時間を過ごした。

今でも研究員として大学に通うにとっては行き着けの、なんでもない場所だったのだろう。友達や同期の研究員や後輩や教授と、よく出入りする場所だったのだろう。しかし、獄卒の肋角にとっては、愛おしいとの、大切な思い出の場所でもあった。
そこへへどが出るほど甘ったるいチョコレートが遠慮もなしに溶けて、2人の思い出を侵食して塗りつぶしていくような胸糞の悪さを感じた。

はそんな肋角の胸中にも気づかず、けらけらと笑い、まるで幼い少女のように言葉を続けた。

「彼ったらおかしいの。甘いものが好きなのにね、苦い煙草をぷかぷかふかすのよ。おかしいったらないでしょう。それは甘いのと聞いたら、吸ってみますかと言われたけどお断りしたわ。一度あなたのを吸ったことがあるもの、そうでしょう。それとね、」


振り向いたは、肋角のその近さに驚いて肩を跳ね上げさせた。無理もない、巨体の成人男性が自分に迫っている。知り合いでなければ叫んで逃げ出しそうになるところだ。

「いやだ、びっくりした…肋角さん?」


肋角は向き直ったの腰をぐっと片手で抱き、の顎を持ち上げた。それ以上の言葉はもううんざりだった。
肋角さん、という言葉が飲み込まれていくように、2人の唇が重なり、肺の圧迫感には目を白黒させた。いつもならこんな性急な接吻など、彼はしないというのに。

「んっ……肋角、さん?」
「これは甘いと思うか?」
「なんのお話?」
「やはり人間のほうがいいか」

ちらり、と肋角の口から覗いた犬歯に、人間らしからぬ異形を垣間見て、はぞくりとした。頭がさーっと冷えていく。声がこわばった。

「いやだ、肋角さん」
「そんなにめかしこんで、本物の俺よりそいつに会いたくなってしまったか」

耐え切れず、はぎゅっと目を閉じると、顔をそらしてぺちん、と肋角の頬をはたいた。それは勢いなんかではなく、まるで戯れにそうするかのような、他愛もない、軽い音だった。
突然のことで、夢から醒めたかのように肋角が目を瞬かせていると、は恐る恐る目を開いて、不服げに唇を尖らせた。

「肋角さん、何か誤解してらっしゃるわ」
「…」
「私が例の後輩に心変わりしたとでも思ったの」
「いつもは白衣だろう」

キッとの目が肋角のほうを向く。よくよく見れば、千鳥格子のコートの下は、が好んで着ているセピア色のワンピースだった。

「私肋角さんの前でいつも白衣だったかしら?デートの時も?」

腰に両手をつけ、は酷く心外だという顔で肋角に詰め寄った。形勢逆転、デートの時も、という言葉に肋角はうろたえる。の着ているワンピースこそ、まさに初めてのデートで着てきたそれではないだ。それとこれとは別だと言ってやりたいところだが、この小鬼のような目はその言葉を許さないとでも言いたげだ。肋角は口を慎んだ。

「私だっておしゃれしたいわ。でもそれって殿方のためだけじゃなくってよ。そりゃ、肋角さんにだって見てもらいたいから、こうして今来たんじゃないの」
「…」

黙って聞いている肋角に、はしょんぼりと肩を落として、一転して悲しげな口調になった。

「…普段白衣なのだって、お化粧が最低限なのだって、あなたに気を許しているからだわ。それを勘違いしてもらっちゃ困るのよ」

そういうと、先ほどから一言も喋らない肋角を見上げて、呆れたように微笑んだ。が肋角の頬に手を伸ばすと、肋角はそれをそっと背を縮こめて受け入れる。
この小さな女性に、心の臓を握られているという事実が空恐ろしい。

「妬いたりでもしたの」
「悪いか」
「悪かないけど、突然するんですもの。私息ができなくって、死んじゃうんじゃないかって、味なんてわかったもんじゃないわ」

そういって、はワンピースについているポケットを漁った。でてきたのは、銀紙に包まれた小さな塊だった。

「彼からもらったけど、そんなにイヤなら肋角さんにあげる」
「そんなものは捨てる」
「それは駄目よ」

は銀紙を剥いでポケットにくしゃくしゃとつっこむと、ぽいとチョコレートを口の中へ放り込み、ぐっと背伸びしてなんとか肋角に口付けた。肋角は一瞬驚いたが、すぐにその腰と背中に手を這わせて、幼子にそうするようにも少しかがんでやる。は背が小さいほうではなかったが、肋角が大きすぎた。

口の中にの口内で溶けた、とびきり熱くて甘ったるい塊が入り込んでくる。唇を離し、肋角が濡れたの唇を親指で拭うと、そこに赤い口紅がさっと刷いたようについた。

「男の人っていやあね」
「…」

そういって眉を八の字に下げて笑うに、肋角はやれやれと降参の意味も込めて帽子の鍔をおろしたのだった。