毎年、蝉が鳴くこの季節になると、彼女は髪を切りたがる。
ハサミを片手に持ち、やってくる。





「千種、髪切って!」





めんどくさいと思いつつも、内心彼女の髪に触れるのが嬉しい自分がいるのも確かだ。





「…めんどい」





     Y





キャップをかぶって、髪を括る。
それから、眼鏡を押し上げた。

「千種は優しいね。めんどいって言ってもやってくれるもん、結局」
「…、坊主にするよ」
「ぼうっ…!? や、やめてそれだけは!」
「じゃあ早く座って…。…めんどい、早く済まそう」

風に揺られ、木の葉の影がゆらゆらと移動する。
大きな木の下、剥げた椅子に座ったは、ぴんと背筋を伸ばした。

霧吹きを吹きかけて、櫛を通す。





「…朝、」
「ん?」
「髪。…梳いた?」

櫛が、通りにくい。

「ううん、今さっき起きたから」
「…ダラダラしすぎ」

犬みたいになるよ、と千種が呟くと、は小さく唇を尖らせた。

「私、あそこまでダラダラしてないもんね」
「…犬、イヌだから」
「そう、犬はイヌだから…」





本人が聞いていたらさぞかし憤慨しているであろうが、当の本人は暑さにダウン中である。





噂を運ぶように、風が一陣、通り抜けた。





     Y





「どの位?」
「ん? えーとね、ベリーショート以外。セミロング…よりは短め? 前髪は切らない…
…ああーもういいや! 千種にお任せする」
「…(めんどい)」

そう思いつつも、とりあえず揃えよう、とハサミを手に取った。
いつもここで、少し切るのが勿体無い気もする、と思う。

「(そういえば…)」

ちょきん、

は…なんで、切るの」
「え?」

ちちょき、

「別に…ただ暑いから」
「…古典的だけど、」
「うん?」
「…失恋とか」





ちょきん。





垂れた汗を拭いながら、千種は「(それは絶対に無いか)」と思った。

「そんなんじゃないよ」
「(…やっぱり)」

自分で振った話題だったが、いささか考えが浅かった。
会話はすぐに点となって、途切れていく。





蝉の合唱だけが、耳の奥で響く。
焦がすように、揺さぶる。





「ねぇ、千種」
「…何」
「非常に言いづらいけど、去年も同じ事聞いたよ」
「…」
「私ってそんなに魅力なく見える?」
「…別に」
「え、マジで?」
「そういう意味じゃない。…振られる前に相手がいなさそうって事」
「ひどっ!」

千種は眼鏡のブリッジを押し上げると、ハサミを動かすのを再開した。





飛行機の音が頭上を駆け抜け、融けていった。





「…夏だねぇ…」
「…(暑い)」
「夏っていうと散髪だねえ…」
はいいけど、…暑い」
「あーごめん、後で冷たいお茶持ってくるから」

たわいも無い会話を繰り返し、振り向いたの顔を前へと向け、
汗を拭い、蝉の声が一層大きくなり、





     Y





「…できたけど」
「…んあ!?」
「…(寝てたんだ…道理で静かだった)」
「え、あ、え? あ、終わったの?」
「うん」
「わー鏡! 千種っ、鏡!」
「持ってない」
「ええー…」





は首からタオルを外して、少し服に落ちた髪の毛を払う。





「おおー…なんか頭が軽いな」
「何も詰まってないから」
「うんうん、って違うからね千種」





ぱん、という乾いた音と共に、真っ白なタオルが風に揺れる。

「よし、じゃあ約束どおり、冷たいお茶を持ってこよう。
千種はその椅子に座って…ってもう座ってるか」
「…暑い」
「ごめんごめん、待っててね」

少し短くなった髪を揺らし、が振り向きながら微笑む。
そしてそのまま、走っていった。

その背中がゆらゆらするまでぼんやりと見つめ、千種はキャップを頭から外した。
外気に触れた頭は、ゆっくりと熱を発散する。





「…暑い」





もう一度呟いて、蝉の声に、耳を澄ませた。





     Y





「…くさ、千種!」
「…何…めんどい…」
「起きてよー! 脱水症状起こすよ」
「…」

それもめんどいな、と思いつつ、千種は瞼を開いた。
少し額に汗をにじませ、は笑っていた。

の手には、お盆がのっている。

「…何、それ」
「ん?」

お盆の上の、真っ白な小皿。
しかし、は小さく笑ってごまかした。

は千種の隣にしゃがむと、コップを手渡す。





「ありがとうね、千種」
「…ん」





髪を切ってもらったことだけでなく、全てを込めたような感謝だった。





二人でコップに溜めたお茶を飲み干す。
冷たいお茶が、ゆっくりと喉を流れて、肋骨に染み込むようだった。





「あ、そうそう、千種」

がコップを手で弄びながら、千種へと目線を向ける。

「…何」

無愛想な返事も気にせず、は毛先を一房摘んだ。

「この髪型、かわいい。ありがとー」
「…別に」
「んで、お給料」
「?」

が、お盆の上にのっていた小皿を持ち上げる。
小皿には、細いフォークが添えられていた。





「…桃?」
「そう、缶詰じゃないよ。旬の桃」
「…パイナッポー、」「は、やめといた」

冷やしたから美味しいよ、と言って、が桃をつつく。
じっと桃を見つめてから、フォークで突き刺す。





それから、一口、がぷりと齧ってみた。





「…」

果汁が顎を伝っていく。
手の甲で拭っていると、も同じ失敗をやらかしたようだった。





「…」
「…」





噛み締めるたび、口の中に広がる香り。

「(…の、匂いっぽい)」

実際そんな匂いはしないが、そんな気がした。





風がふいて、の髪が揺れる。
自分が、さっきまで触って、切っていた髪が。





「…夏」
「ん? そうだね」





が目元をほころばせた。





つられて、小さく笑った。





桃、匂ふ、






「あ、千種、飛行機雲!」「…うん」