少年はただひたすらに走っていた。しかし、その足はもつれ気味で相当に疲れていることを伺わせる。顎も上がり、マスク越しに荒い息が吐き出されていた。とうとう、疲れが頂点に達したのか、少年は膝に両手をついてぜーぜーと肩で息をする。しかし、それも束の間ですぐに体を起こすと、切羽詰ったような表情であたりを見回す。暫くそうしていたかと思うと、ようやく緊張の糸でも解けたのか、表情をいくらか和らげ――しかし、それはすぐに固まった。
いまどきにしては珍しく舗装されていない道が、どこまでも真っ直ぐに伸びている。乾いた土がむき出しになっていて、ところどころ石が転がっていて如何にこの道が手入れされていないかが窺い知れた。そして、道を囲むように針葉樹が林立していた。それは一見すれば、道の両側に壁が聳え立っているようにも見える。空気はしんと静まり返り、時折風が悪戯に林をさざめかせるのみであった。
少年、綾小路は、今までそのような景色を見たことが無かった。都会化が進む近代、忘れさられたような光景が彼の目の前に広がっていた。綾小路は先ほどとは違って、戸惑うように眉根を下げて不安げに辺りを見ている。それから、ぽつりと呟いた。


「ここは、何処だ?」


それは、誰かに尋ねるというよりも思わず零れた本音といった風なものだった。返事なんて全く期待していなかった綾小路の耳が、しかし凛とした声を捉えた。


「ここは古道」


驚いて声のしたほうを振り向いた綾小路の視界に入ったのは、一人の少女と無数に飛び回る烏の群れであった。少女は烏と同じ漆黒の瞳を持ち、艶やかな黒髪を風に靡かせていた。白い陶器のような肌は抜けるように透き通っており、その上に様々な顔のパーツが精巧な位置に置かれていた。そして、真っ黒なセーラー服を身に纏っていた。少女は全てが完璧で非の打ち所のないような容姿をしていたが、それゆえに生きているようには見えず、まるで人形のようだと綾小路は思った。少女はそれだけでも十分に非日常の気配を漂わせていたが、それに拍車をかけるように少女の周りは雰囲気が違った。無数の真っ黒な烏が、あるものは空を飛び回り、あるものは近くの梢に止まり、あるものは少女の足元でうやうやしく頭を垂れていた。


「君は誰だ」

「そういう貴方はだぁれ?」


綾小路が鋭い声で問いかけると、少女は不思議な調子をつけてそう返した。軽く小首を傾げて微笑む少女は、先ほどとは一変して年相応に見える。しかし、相変わらず少女を守るように烏は彼女の周りにいた。だから、綾小路は警戒心を解かずに少女を睨み付けた。そんな綾小路を一瞥して、少女は笑い声を漏らす。


「そんなに怖がらなくてもいいよ、迷子君」


少女は目を細めて、愉快そうに綾小路を見る。一方、彼はというと不快感を露にして、未だに少女を睨み付けている。そんな綾小路を見て、少女は頬を人差し指で掻きつつ、曖昧に苦笑を浮かべる。


「まぁまぁ、落ち着いて。君、迷っちゃったんでしょ?」


その言葉に、綾小路は眉間の皺を一瞬深くしたが、一回だけ首を縦に振る。それを見て、少女はにっこりと笑いながら、綾小路に少し近寄った。それでも、二人の間には1メートルほどの距離があった。それ以上近づけば、綾小路の警戒心を余計に煽るだけと計算したのだろう。


「それじゃあ、送っていくよ。どこら辺の子なの?」


そう言って屈託無く笑う姿は、二人が出会った当初の得体の知れない印象とは大きく違っていた。綾小路は、その違いに戸惑いつつも、己の住む町を教えた。綾小路にとっては癪ではあるが、少女の言うとおり彼は迷ってしまったのだろう。彼一人の力では到底戻ることが出来そうにないし、多少怪しいとはいえ案内をしてくれそうな人がいたのならば助けてもらうのも当然かもしれない。それでも、綾小路は完全に警戒を解いたわけではなく、前を歩き出す少女から一定の距離を保って着いていった。その様子を見て、少女は苦笑を漏らした。


「そういえば、君、どうやってここに来たの? 普通の人間じゃあ来られないはずなんだけどなー」

「気がついたら、ここにいた。それに、その言い方だと君は普通の人間じゃないみたいじゃないか?」

「うん、半分妖怪だからね」


さらりと、まるで自分の血液型を言うように、少女は綾小路にとって衝撃的な発言をした。思わず足を止めて、少女の後頭部を食い入るように見つめる。彼女も綾小路の様子に気がついたのか、足を止めて振り返った。まだ、どこか幼さの残るその顔立ちは、とてもではないが妖怪とは思えないものである。しかし、少女の言葉は案外あっさりと受け止めることが出来た。綾小路はそれに納得するかは置いておいて、少女が人外の者であると理解は出来たのだ。


「そう、か」

「あれ、意外と驚いてくれないね?」


少女は少しだけ目を見張り、そしてすぐに嬉しそうに微笑んだ。向日葵のように輝かんばかりのものではなく、むしろかすみ草のような可憐なその微笑は、どこか寂しさを滲ませているように綾小路には思えた。だからなのか、少女がひどく儚げなものに思えたのだった。


「それほど驚くことでもない」

「普通は妖怪だなんて、恐怖の対象だと思うんだけどなー」


少女は唇を尖らせて、足元に転がっていた石を烏がいない方へと蹴ってから、再び歩き出す。彼女が、少なからずとも烏のことを気にかけていることが分かった。少女は半分妖怪だと言う。それは、妖怪の血が半分だけ流れている、つまり、両親のどちらかが妖怪であるのだろう。では、一体何の妖怪であるか、綾小路は考えた。ヒントになりそうなものといったら、彼女の周りにいる無数の烏だろう。烏は少女が歩くその後ろを着いていく。また、少女も烏を優しげな眼差しで見つめていた。しかし、その程度で無数にいる妖怪のうちのどれかであると特定出来るはずもなく、また綾小路はどちらかといえば西洋の魔物についてのほうが精通していた。答えが分からず、だが何故だか少女のことが気になって、綾小路は問いかけてみることにする。


「君は、一体何の妖怪なんだ?」

「烏天狗だよ。ご先祖様は昔は山の警備をしていたそうだけど、今は古道の警備をしてる。妖怪も、生きにくくなったからね」


空を仰ぎ見て、少女は寂しそうに笑った。綾小路も釣られて空を見てみれば、茜色の空に黒点が散在している。烏は地域によっては崇められる存在ではあるが、一般的には不吉の象徴として捉えられている。綾小路も例に漏れず、烏に対して良い感情は抱いていなかったが、今は烏が神々しいものに思えてきていた。


「妖怪は生きにくいのに、悪魔は蔓延っているだなんて皮肉だな」

「悪魔が? 迷子君はそっち方面の人なの?」


自嘲気味に呟いた綾小路の言葉を、少女はしっかりと聞き取っていたようで、少しだけ緊張感を孕んだ声で返事をした。少女の変化を、烏はすぐに気がついたのか喧しく鳴きだす。少女は眉間に皺を寄せると、何かを振り払うように手を振る。すると、先ほどまで騒がしかった烏が水を打ったように静まり返った。それから、少女は申し訳なさそうに眉根を下げて、綾小路に謝った。


「怖がらせてごめん」

「いや……」


綾小路は、手に汗をかいていることに驚愕した。少女に声をかけられるまで、異様な雰囲気に呑まれて考えることも感じることも出来なくなっていたのだ。ようやく我を取り戻せた綾小路は、それでもいささか青い顔をしているように見えた。少女は心配げに綾小路の顔を見ていたが、彼が歩き出したので彼女もそれに倣う。二人の距離は、先ほどよりも縮まっていた。少女は時折後ろを歩く綾小路を振り返りつつ、恐る恐るといった風に口を開いた。


「良かったら、さっきの質問答えてくれる?」

「……悪魔は嫌いだが、契約したことはある」


綾小路は苦虫を噛み潰したような顔をして、前を見据えたまま答えた。それを聞いて、少女は肩を落としてため息を吐く。そうして、ぶつぶつと何事かを呟きだす。その声は小さく、また早口であったし、そもそも使われる言葉が専門的なものばかりで、綾小路はたとえ聞こえたとしてもその意味を理解は出来なかった。暫くそうして独り言を呟いていた少女であったが、不意に言葉を途切れさせると、綾小路のほうを振り向いてひどく真面目な表情で口を開いた。


「どうして契約したのか聞かせてもらって良い?」


その言葉を聞いて、綾小路は一瞬答えるのを躊躇った。彼が悪魔と契約した理由は、あまり褒められたものではないし、そもそも人に話すような内容ではない。しかし、彼の前を歩く少女は迷っていた彼を助けようとしてくれている人物である。確かに雰囲気こそ普通の人とは異なっているが、性根はそれほど悪いという訳でもなさそうである。だから、綾小路は彼が悪魔と契約するまでに至る経緯を話すことにした。


「それは、なんというかどっちもどっちだね」


綾小路の話を聞き終わって、少女はそう感想を漏らした。同情が欲しかったわけではないが、そう言われると綾小路は少しだけ腹が立った。食って掛かろうかとも思ったが、もしそれで少女の機嫌を損なってしまっては、彼が得することは何も無い。だから、何も返さなかったのだが、彼の眉間に僅かに皺が寄っているのを見た少女はくすくすと笑い声を漏らした。


「気に障ったなら謝るよ」

「別に怒ってなんかいない」

「じゃあ、そういうことにしておくよ。で、今日はその彼に追われて、この古道に迷い込んじゃったのかな?」

「ということなんだろう。ところで、古道とは何なんだ?」


聞きなれないその言葉に、綾小路は当初から疑問を抱いていた。しかし、それを尋ねる機会がなかったので、今まで黙っていたのだ。ようやく、聞けるような状況になったので尋ねてみると、少女は口を閉ざして宙を見つめる。不味い質問だったかと冷や冷やしだしたころ、ようやく少女は口を開いた。
少女が言うには、古道とは神様の通り道のようなものらしい。例えば、出雲まで出向く時にこの道を使うのだ。とはいっても、妖怪や稀に人間などが道を使ったり、住んでいたりもするようだった。少女の両親もその類で、だから少女にとってはこの古道のほうが馴染みのある世界らしかった。この古道は神聖なもので太古の昔から存在しており、だからこそ悪魔などといった西洋のものは受け付けられにくいものだった。だから、綾小路が悪魔という単語を口にしたとき、つい反応してしまったらしかった。
あまりにも突飛な話ではあったが、少女の口から話されると不思議な説得力があった。だから、綾小路はその話を信じたし、故に浮かんできた一つの質問を彼女に聞いてみる気になった。


「悪魔は、この古道にはやってこれないのか?」

「だと思うよ。ここを使えるのは一応八百万の神様ってことになってるし。……まさか、こっちに住むつもり?」


綾小路の考えていたことに、すぐに少女も気がついたのか、少しだけ険しい顔をして綾小路のほうを見る。その視線を、真っ直ぐに正面から受け止めて、綾小路は一つだけ首を縦に振った。それを見て、少女は表情をより歪める。


「正直、お勧めは出来ない。古道に住むってことは、こちらの世界の所有物になるってこと。もう二度と帰れなくなるかもしれないよ?」

「大川から逃げるためなら何だってやってやる」

「挙句、妖怪に食われたとしても?」

「別に構わない。それに、どうして君がそこまで僕のことを気にかけるんだ?」


綾小路から逆に尋ね返されて、少女は言葉を失った。そして、暫くの間まじまじと綾小路の顔を見つめる。なまじ、少女は顔立ちが整っているだけに、気恥ずかしい気持ちとなった綾小路は視線を逸らした。


「初めて、だったから」


少女が呟いた言葉は、確かに綾小路には聞こえた。しかし、その意味が分からずに聞き返す。そうすれば、少女は僅かに頬を染めてふわりと笑った。


「同い年ぐらいの人間で喋ったのは迷子君が初めてだったから」

「……そう、か」

「だから、こう言っちゃあ不謹慎だけど、君が迷い込んできてくれて嬉しかったよ。でも、だからこそ、きちんと送り返さないとね。さ、という訳で着いたよ!」


そう言って、少女は林の中を指差した。そこには、注意して見なければ分からないほどに荒れている獣道が伸びていた。こんなところを通った覚えは、綾小路にはなかったが、少女がそう言うのだからここでいいのだろう。


「この道沿いに行けば、すぐに戻れると思うよ。それと、もしも本気でこっちに住む気があるなら、せめてもっと大きくなってから来なさいな」


少女に宥めるようにそう言われて、綾小路は思わず頷いてしまった。それを見て、少女は満足げに一つ頷いた。


「それじゃあ、ここでお別れだね」

「あ……良かったら、君の名前を教えてくれないか?」


気がついたら、綾小路はそう口にしていた。何故、そうしたのかは彼自身にもよく分かっておらず、ただあまりにも細い、そして今にも切れそうな絆を強固なものにしたかったのかもしれない。
少女は悪戯っぽく笑いながら、口を開く。綾小路の心臓は心拍数を上げ、そうなる自分に彼は戸惑った。


「秘密。もし、また会えたら教えてあげるよ」

「……だったら、尚の事戻ってきたくなるな」


そう言えば、少女は一瞬目を丸くし、それからすぐに柔らかい笑みを浮かべた。綾小路もそれを見て、笑う。


「またな」

「……また、ね!」


綾小路は、別れの言葉としてそれを選んだ。そのことに少女も気がついて、嬉しそうに笑う。だから、綾小路には言葉とは裏腹の少女の気持ちが分かった。一人苦笑を漏らしながら、獣道を進む。枝が邪魔だったが、それはあっさりと唐突に終わった。
気がつけば、綾小路は閑静な住宅街に立っていた。後ろを振り向けば、自然公園の茂みが広がっている。綾小路はその光景を目に焼き付けた。もう一度、ここに戻ってくるために。


見えない糸の結び方





(10/3/21)