青い実





大将はまた一段と大人になった、と厚藤四郎は思う。

「誕生日、おめでと主」
「ありがとう青江」

そう言って微笑む本丸の主・の前には、形は少しいびつだが、立派なケーキが鎮座していた。近侍の青江も今日ばかりは穏やかな笑みを浮かべる。
今日はの25の誕生日で、この日ばかりは皆この本丸の一角に集まって、人の子である主の1年を祝していた。

はまだまだ青さの残る18の頃、加州と共にこの本丸へ就任した。
審神者として年は若かったが真摯かつ聡明で明るい、そんな主に刀剣たちはみなついていった。厚もその1人で、このどこかほっとけない主を支えてやろうと、最初は意気込んでいた。今だって、口に生クリームをたっぷり頬張るの姿は、どこか垢抜けず年若だった頃の面影がある。

やんややんやと盛り上がる輪から、厚は気づかれないように、そっと一歩身を引いていく。
顔は祝福の空気に馴染むために笑みを形作っていたけれど、本当は口角が引きつってしまいそうだった。

の、戦歴を重ねるたび大人びて凛々しくなる横顔も、増える刀たちを束ねる包容力のある微笑も成熟した落ち着きも、厚は寂しくてたまらない。
ただでさえこの幼い体で、主の眼中にもないのに、自分だけが取り残され、どんどん差が開いていってしまうような気がする。あんなにを慕っている初期刀の加州ですら今日の祝宴にはしゃいでよろこんでいるのが、厚には信じられないくらいだった。
いつもは見ないふりをしている心の陰翳を、まっすぐ突きつけられる日。厚にとって今日のような日は、焦りが積もるばかりだった。





誕生日の翌日、の両親からとてつもなく大きなダンボール箱が届いた。中には昨年漬けたという梅干の大瓶と、紺色のアルバムが十数冊、それに白の簡素な封筒が入っていた。封筒の中にはの母からの便箋が2枚入っており、あんなに小さかったももう三十路ですね、などと茶化す言葉もあったが、言葉の端々から優秀なわが子を気遣っている様子が伺えた。「いくつになっても親は子がかわいいものだからね」青江が笑う。
せっかくなので、成人の頃に送り忘れていたアルバムを一緒に送ります――その一文に、「なんて親だ」とは後ろ頭を掻いていたが、ほんのり染まった頬は嬉しさを隠し切れないでいた。

アルバムには、生まれてすぐ、真っ裸のまま母に抱かれるから、ちょうど審神者に就任したが、生家の梅花の下で緊張した面持ちのまま写る記念写真まで。カメラを持って撮影するのはいつも父だったそうだが、言葉少なでも親馬鹿なのが充分わかる枚数だった。わざわざこのご時勢に現像までしているのもその証拠だろう。
からアルバムを取り上げた加州は、並ぶ写真に目を凝らして笑い声を上げた。

「あはは、主かわいー!」
「僕よりちっちゃい…!」

五虎退の呟きに、ほかの短刀たちもどれどれと近寄る。厚もそれにつられて冊子を覗き込み、わずかに目を見開いた。

「厚?」

厚ははっと我に返る。横を見ると敏い薬研がこちらを見ていた。
おもしろいものを見た、という顔で、薬研は厚を肘で小突いた。

「なんだあ、大将のちっこい姿に見ほれてたのか」
「あ、あはは…まあ、そんな、感じ…」

ふうん。そういいながら薬研はにたにたと含み笑いを見せている。
厚が主へ向ける感情の“上っ面”くらいを知っているこの兄弟は、なんと無邪気なことか。

厚の目は、一枚の写真に釘付けだった。学ラン姿で胸に造花をつけたは、「入学式」と書かれた立て看板の横で今と同じ笑い方をしている。
ちょうど、厚と同じくらいの背丈。同じくらいの幼さ。声はどんなだったのだろう。厚は過去のに思いを馳せた。

「この時会えたら、よかったのに」
「え?」
「…いや、なんでも」

「ねえ薬研見て!この主!」「ああもう、乱いいから!」

「あーあー、乱のやつ…」そういって傍を離れた薬研を盗み見ながら、厚はその写真をこっそりポケットから抜き取り、即座にポケットにしまいこんだ。
写真をつかんだ指先がどくどくと脈打つのがわかる。いけないことだとわかっているけれど、幸いにもそれを、誰も気づいていない。厚の中で後ろめたさよりも欲が勝った。羽化に失敗した蛹のように、硬い殻の内でよくないものがどろどろとうねっているような感覚。それを見ないふりをして、厚は再び輪に戻った。





そんなことがあったのは1年も前。明日はまた、主の26回目の誕生日だ。
も刀たちも、いまだに写真が1枚欠けていることに気づいていない。いや、気づいていても気にしていないのか。厚にとっては追及されない限りどちらでもよいことだ。

厚は出陣の前、いつもその写真を取り出して幼いの輪郭をなぞる。伝わるのは印画紙のぺったりしたような感触だけれど、ちょうどその丸い頬を慈しむように。
その時だけは、精練された心が蘇り、刀として主へ身命を賭すほどの忠誠心がふつふつと湧き上がる。この小さな主なら、自分でも最後まで守ってやれそうだと思うから。

明日に向かって浮き足立つ気持ちを落ち着かせるように、厚は写真を取り出す。幼い横顔には不自然な、望郷に似たまなざしで、厚は写真の中のを見つめる。物思いに目を伏せると、いつも変わらぬ白皙の頬に濃い影が落ちた。――このまま時が止まって、それから、ぐるぐると昔へ戻っていったりはしまいだろうか。

この本丸のどの刀に成り代わろうと、いずれは同じこと。どんなに似たような姿で多くの時間を過ごせど、刀でない人間のはいずれ老いて朽ちていく。それをたった1本の金属に止めるすべなどない。この刀の身を憎いと思うが、この姿でなければ彼に会うこともなかっただろうと思うとやるせない。

黙考する厚のつむじに、ぽこん、と何かが落ちてきた。
頭を抑え、厚は頭上を見上げる。実のたくさん生った立派な梅の木が、厚を見下ろしていた。下を見ればちょうど靴のつま先のところにころんと小さな実が落ちている。

の生家に植えてある梅は、が生まれたとき記念にと両親が接ぎ木したらしい。この本丸にあるそれはもちろんの家にあるものとは違うけれど、就任したばかりのが懐かしがって植えた一本だった。もしかしたら姿は違えど、主を追って大宰府まで飛んでいった梅のように、を追いかけてきたのかもしれない。厚がもし仮に梅の木ならそうするだろう。
梅ですらと共に歩んできたのに、と自嘲しながら、厚はしゃがみこんで青いまま落ちてしまったらしい桃にも似た実を拾い上げた。鼻を近づければ、ほんのりと香りがする。

梅は食うとも核食うな、中に天神寝てござる、か。燭台切が短刀たちに厳しく言い聞かせていたのを覚えている。青梅は毒だからそのまま食べてはいけないと。

厚はしばらく考えてから、服のすそで青梅を擦り、おもむろに果肉を小さな唇に付けた。
硬い実におずおずと歯を立てた瞬間、

「――厚?」

聞きなれた声がして、厚は冷水を浴びせられたような気持ちになった。
はっと振り返れば、自分を探しにきたのだろうか、がこちらを見ていた。

「…、大将」
「何してるの?」きょとんとした顔のが、厚の手の中にある実を見てわずかに顔をしかめる。「…それ、青いよ?それに生で食べたらダメだ、」

「厚は体が小さいんだから」

突然喉に刃を差し込まれたような衝撃に、厚は言葉を失った。手のひらから青い実がぽろりと落ちていく。

動揺したあまり、銀灰色の瞳からぼろ、と大粒の涙が零れ落ちた。一度流れると、思い出したように胸がじくじくと痛み出す。やや遠くにいるぼやけたが酷く焦っているのが見えた。当たり前だ、今までの前で泣いたことなんてない。
が駆け寄って厚の両肩をつかむ。筋肉があっても華奢な体は、その動きで容易に揺さぶられた。

「え…厚!ごめん、びっくりした?」
「…、…」

厚は痛む胸をぎゅっと握り締めてふるふると首を振った。
違う、こんな子どもみたいに振舞いたいわけじゃない、でもそうとしか振舞えない自分が憎らしい。

「厚、変なこと言ってごめんね、驚かせちゃったね、食べてないなら大丈夫だよ」
「や、へいきだ、大将」
「厚?」

お願いだから、もうこれ以上、幼子にそうするように自分を宥めないでほしい。今は拙い言葉しか返せない自分を、もう見たくない。
肩を包むの手のひらは、太陽のように暖かく、大きくて、安心して、でもそれ以上に――己との違いを見せつけられるようで。

青い実が毒だとわかっていても、飲み込んで、そのまま死んでしまいたくなる。隣に並んで似合わぬだけの未来なんて、いらないのだ。それならいっそ、青いまま、彼の心に深く傷をつけて居座ろうか。
複雑に絡み合った気持ちを柔らかい皮膚の下に押し込めて、厚はいつものように精一杯の笑顔を作った。

「だいじょうぶ、俺、…刀、だから」