ひとりになりたい。匋平は小さくため息をついた。

どうも調子が狂う。一週間のど真ん中といえば、客足が遠のくのが普通なのに、今晩のBar4/7は客入りが多い。つい数分前に突然降り出した雨が彼らの足を引き止めて、興味本位が雨宿りに手招いているのだろう。常連客は遠慮して端に避け、見慣れない顔がカウンターに並ぶ店の雰囲気はいつもと違う。

こぢんまりとした店とはいえ、客席が満員になればそれなりに慌しくもなる。リュウの毎度のかき乱すペースが、忙しい今日に限っては一段と恨めしい。四季はドアの開く気配を察知しては、慌てて駆け寄って頭を下げながらお断りの言葉ばかり。唯一涼しい顔でシェイカーをふるうバイトの大学生・だけが、普段どおりの空気をまとっていた。がいなければ、匋平はもう諦め半分になっていただろう。

「やれやれ…凄い雨だ。匋平、くんを送ってあげなさい」

学会の出張帰りに店へと顔を覗かせた西門がそう言ったのは、店の中がようやく落ち着いてきた頃だった。激しい雨に打たれたらしい西門は、雫の滴る前髪を撫で付けている。
いい気分転換だ、悪くねえな。西門の頼みに、匋平はカウンター下に置いていたタバコとキーをポケットに突っ込む。

「わかった」

匋平の返事に、常連客から奢られたソルティ・ドッグに口をつけてひとごこちついていたが、「いや、私は別に」と言いかけたのを、西門が「危ないから」とやんわり遮る。同じ大学に在籍しているとはいえ、ふたりの専門領域は違っていて、広いキャンパスで顔を合わせることはほとんどない。それでも西門の教員としての物言いが、学生であるを黙らせる。は自分の腕時計を盗み見た。針はまだ勤務時間中であることを示している。オーナーである西門が言い出したのだから、早退して減給されることはないだろう。だがは依然として腑に落ちない顔で、リュウの首根っこをつかんでいる向こう隣の匋平に声をかける。

「匋平さん飲んでるでしょ」

暗に、断れと言っている口調だった。
匋平は知らないふりをする。ごみごみしたここから一旦抜け出し、自分のペースで一服したかった。

「あいにくこいつらのおもりに手いっぱいで、今日は一滴も飲んでねえな」

匋平のそばでグラスを洗う四季が縮こまる。客の雑談の声と水を流す音が空虚に響いた。「…オーナー」が自分のグラスに視線を落とす。

「なんだい?」
「あんまり、親ヅラしないでくださいね」

の鋭い棘に、西門が苦笑いした。





Rainforest
in
Concrete Jungle
Rainforest
in
Concrete Jungle





「よろしくお願いします」

シートベルトをしめたがおざなりに言う。
の声はおとなしいものの、普段の声が臆病になりがちな四季と違い、一本筋が通って凛としている。先のように歯に衣着せぬ物言いもするが、短いドライブにはちょうどいい物静かな音色だ。

歌はうまくないので、嫌いです。そう言うの歌声を、匋平は一度だけ聞いたことがある。四季の誕生日に、店でサプライズケーキを出した時のことだ。暗闇にケーキを持って現れたに、四季は目を白黒させて、ほのかに頬を赤く染めていた。ろうそくの明かりに見えるの小さな口はぱくぱくしていて、肺から声を出さずに歌うから、子どもじみた音程のハッピーバースデートゥーユーだった。

いじけた顔のを尻目に、匋平はタバコを口にくわえる。が時折西門を疎ましがるのを、匋平はわからないでもない。例えば四季は、年上のに憧れているけれど、西門はその気持ちを読み取って余計な世話を焼く。も馬鹿じゃないから、四季から向けられる視線の温度には気づいているはずだ。わかっていて、あえて知らないふりをしている。西門は誰かを好きになる気持ちを知っているから、それを四季に重ねてほほえましく思っているのかもしれないけれど、それはとんだおせっかいというものだ。もっとも、ひとまわりほど年が離れていると、それこそ他人事のように考えるのかもしれないが。

匋平が車のエンジンをかける。FMラジオをつけると、妙にハイテンションなMCの声がして、車内に微妙な空気が漂う。の無言が痛い。チャンネルを回すと、静かなピアノクラシックが流れる。雨音にまぎれないギリギリのところを狙ってボリュームを絞る。白けた空気が引き締まった。タバコに火をつけて、匋平はハンドルに手をかける。地図に頼らなくても、のアパートは知っている。ゆっくり車を発進させた。

助手席のはいらいらした様子を隠さずにいる。もちろん匋平の吐き出す紫煙が原因ではない。どこでも禁煙化が叫ばれているご時勢だけれど、夜の街はそんなことお構いなしだ。それは4/7も例外ではなく、今日だっては煙のこもる店内で仕事をしていた。

「せっかく飲みに行こうと思ってたのに。オーナーは本当に余計なことばかり言いますね」
「お前…こんな雨だぞ。おとなしく帰れよ」どうかしてる、そんな調子で匋平が言った。

「ひとりになりたかったのに」

黙り込んだが、ぽつりと零す。それについては匋平も同意だった。速度を落として角を曲がる。の首がかくん、と揺れた。

「ならなおさら帰るべきだな」

「そうじゃなくて…」ず、とが鼻をすすった音がした。この雨で寒いのかもしれない。「ひとりになりたいけど、誰かのいる場所にいたかったんです。そういうの、わかりません?」

匋平が鼻で笑う。四季は大人っぽいとに憧れているが、匋平からしてみれば、は口の減らない生意気な乳臭いガキである。そんなガキが一丁前に何を、と思った。そんなやつが夜の街をふらついても、いいカモになるのがオチだ。なるほど、西門がを送っていけと言ったのも頷ける。

「まったくわからねえわけじゃねえが…年長者の言うことも聞いておけ。それがいい」
「そういうのが、親ヅラって言うんですよね」

の減らず口に、匋平はつい笑みを零す。こんなに冷めた人間ではなかったけれど、周囲に牙を剥き、ケツの青かった昔の自分を思い出した。

不思議だ。さっきまでは、ひとりになりたいと思っていたのに。今この瞬間、助手席からがいなくなってしまったら、物足りなく思うだろう。ほかの誰かが隣にいても、何かが違うと思ってしまうだろう。それこその言う、ひとりになりたいけど、誰かのいる場所がいい、だ。特に、4/7のカラーに染まっているのそばは居心地がいい。

匋平は遠くを見つめる。雨で街中の明かりがぼやけている。フロントガラスごしに、かすかな雨の冷たさを指先へと感じる。世界のすべてが自分から遠ざけられているかのようだ。
人肌恋しいという感覚を覚えるようになったのは、匋平が孤独ではなくなったから。誰かに暖かく迎えられることを知ったから。あるいは、西門のように──誰かを好きになる気持ちを知ったからかもしれない。

かり、と音がした。匋平がちらりと横目で窺うと、が前髪をかきあげるようにしながら、窓枠に肘を突いている。小指の小さな爪が、髪の生え際をひっかいたく音だった。

業界未経験だったに、カクテル作りを教えたのは匋平だ。シェイカーを上下するオレンジのすっぱい香りを、匋平は今でもリアルに思い出せる。が最初に客にシェイクカクテルを振舞った時、はなんでもない顔をしながら、勢いあまってシェイカーの中身を少しグラスから零してしまったからだ。の小指を伝った柑橘色の雫。は人目を惹く人間だ。容姿どうこうではなくて、静かなのに、妙に人をひきつける。頑なな態度の中に危なげな雰囲気がするからだろうか。ほっとけない感じがするからだろうか。

の吐き出す息がほんのりと、ガラスを白く曇らせている。それがあたかもの実体のように見える。薄く湿った霧を、人型の精巧なガラスで閉じ込めたもの。

ついに会話が消え、匋平の運転する車は、のアパートの前に到着した。匋平がタバコを灰皿に押し付ける。それなのには車を降りる気配がない。アパートの出入り口にいたるまでの雨を気にしているというふうでもない。俯いて、何か言葉を探している。

「…家にひとりでいる気分じゃないです」

ザーッ。ザーッ。

ワイパーが行ったり来たりを繰り返している。車内はバーよりも薄暗い。降り注ぐ雨がざぶざぶと窓を洗う。車体がうっすらまとっていた砂埃も、雨がすっかり洗い流してしまったかもしれない。
の声は小さく、その言葉に込められたなんらかの意志が弱ければ、匋平も内容を聞きなおしてしまうところだった。がすっと顎を上げ、何もない真正面を見つめた。

「匋平さんが埋め合わせしてくれますか」
「はっ?」

突拍子のないの言葉に、匋平が顔をしかめた。

「うち。寄ってきます?お茶くらいなら、出しますけど」

振り向いたの視線が、匋平の顔の表面を触る。どきりとした。

以前とふたりで、プールバーに行ったことがある。あれは珍しくからの誘いだった。店を閉めて、四季たちを家に帰して、ふたりで飲みに行く流れだった。匋平が適当な店を探そうとすると、が行きたい店があるので、と率先して匋平を連れて行ったのだ。おそらく行きつけの店だったのだろう、と同い年くらいの若者があふれていた。

がビリヤード台に身を乗り出し、葉陰から獲物を狙う豹のようなしなやかさで目の前に一点集中する。がキューを軽く撞くと、連鎖反応が起こり、ばらばらだった玉はの思うまま、見事にポケットへと落ちて行った。

今のは、あの時と同じ目をしていた。息遣い、視線、動作。すべてをコントロールして、その場も意のままに操る気でいる。寂しさの穴を埋める、ただそれだけのために。

心臓がうるさい。そこいらの男なら、の意図に気づこうが気づくまいが、誘惑に乗ってしまっただろう。たぶんも、誰でもよかったんだろう。が匋平に向ける常日頃の視線には、なんの温度も感じられない。今この瞬間でさえ、打算しか秘めていない。

匋平の頭を真っ先に、四季の自信なさげな顔がよぎった。は決して年下に甘えなど見せない。逆に年上には、いくらだって甘ったれた姿を見せるし、ガキっぽくなる。リュウや四季の前では絶対そんなふうに振舞わないのに、匋平の前に来るととたんに、年相応かそれ以下の、少女然として見える。もまた、人恋しさを覚えるくらい血の通った人間だということを、嫌というほどつきつけられる。そして自分も。

だからといって、傷の舐めあいみたいな真似はごめんだ。そんな安い男になりさがるつもりもない。

「…早く家に入れよ」
「…」

匋平が呆れ顔で急かすと、は心底嫌そうな顔をして、シートベルトを外した。

──いいのか?このまま逃がして。そんな悪魔の囁きのような、ミルクに似たやわらかい香り。ヤニくさい車内に、の残り香が漂っている。

バン、とあてつけ混じりの乱暴な動作でドアが閉められて、車がわずかに揺れる。匋平はバックミラーを見るふりをした。まだ嫌な視線が肌に突き刺さっているのを感じる。こんな雨の中で、突っ立って自分のほうをにらんでいるが想像できた。

しばらく経ってから、匋平はハンドルの上に身を乗り出してみた。3階の角部屋。カーテンが開きっぱなしだったのだろう、部屋に明かりがついたかと思うと、強い光を嫌うように常夜灯に切り替わる。そして勢いよくカーテンが閉じられた。

──行ったか。

「ハア…」

重たい息を吐き出す。ハンドルの上に額を押し付ける。とんだ気分転換になってしまった。

こんなの、どうかしている。無意識のうちに、と同じ動作で前髪をかきあげていて、匋平はひとり自己嫌悪した。それから、空っぽになった助手席を見つめる。
に試された瞬間、突然揺れだした心臓の辺りを抑えてみても、それは治まってくれそうにない。沈めようとすればするほど、冷たいだけで何の見返りもないの瞳を思い出してしまう。たかが一瞬の出来事が、匋平のペースを今日一番に狂わせた。車内の湿度にもかかわらず、喉がいやに渇く。酒がほしい。

自分が、心の底から一点の曇りもなく、まっすぐ幸せになれる誰かを好きになれたらいいのに。そうすれば、何もかも投げ打って馬鹿になれるかもしれない。いつもいつも、理屈であらがえないものをほしがる。渇望する。そういう感覚でしか生きられない。匋平には、それが時として痛かった。