GOD BLESS YOU

沸き起こる拍手。時折歓声。まぶしいステージに立つ自分。
はそんな時に一番孤独を感じる。自分の苦しみは誰にも理解されることはないのだと。

──、楽しくなさそうだね。

旧友が手に提げたヴァイオリンは力なく揺れていた。音楽で苦楽をともにした者にはわかる、の迷い。だとしても彼らの目がこう告げる。何が不満なんだ。何が気に入らないんだ。

華々しい経歴。天才の呼称。若くしてピアニストとしての成功をおさめたは、何もかも手に入れていたかに見えた。やっかみも賞賛も同じくらい受けていたのに、そのどれもがの心に響くことはない。

自分の奏でる音色に納得できないでいた。霧で霞んで見えない頂を目指すように、その苦しみには果てがない。誰かの演奏を聞いては、自分のほうがましだと、自分だってあれくらいやれると、溜飲を下げてきた。それが根本的な解決にはならず、その場しのぎの慰撫であるとわかっていても。が見つめるのは横でも下でもなくただ上。天上だけなのだ。音楽の女神が自分に微笑んでいるかもわからないまま、ひたすら邁進する毎日。

だがそのプライドも、数分前に完膚なきまでに叩きのめされた。しかも、ピアノ一筋に生きているわけでもないだろう男に。
気がつくとトイレにいて、床にうずくまり便座を抱えていた。おえっ、と喉から漏れる声が脳を揺さぶる。アルコールの匂いが充満し、目を開けていると視界がぐわんぐわんと揺れた。

「──おい」

背後に人の気配を感じた。ゆっくり目を開く。目の前がその人物の作る影で暗い。慌てて駆け込んだせいで鍵すら忘れていたらしい。

「ほかの客の邪魔だ。吐くんならよそへ行け。ったく、いい年した大人が、自分の許容量も測れねぇのか」

さっきピアノを弾いていたバーテンダーの声だった。頭にカッと血が上る。

──うるさい。うるさい!
胸がむかつき、おええ、と再びえずく。精神的なものが強いせいか、出てくるのはもうほとんど胃液だった。

バーテンダーを押しのけ、ふらふらと店外に出たが足元がおぼつかない。酒に弱くはないが、泥酔したのは初めてだった。3歩歩き、たまらず座り込む。立てない。仕方がないから、店の客には見つからない道の端のほうへ膝をついて這っていく。座り込んだが、頭が揺れるのがつらくて仰向けになった。夜空に星は見えない。目が回り、気分が悪い。

死ぬんだろうか。漠然とそう思った。でももういい、自分には何もない。このまま腐ってゆくなら、今ここで死んだほうがましだ。






バーテンダーの左腕にタトゥーが見えたとき、は店選びを間違えたかと思った。
しかし、店自体はシックで上品なたたずまいであったこと、店内も薄暗く落ち着いた雰囲気であったこと、何より店に置かれたグランドピアノが、の気を緩ませた。

未成年に見える店員に、は何気なく尋ねた。あのピアノはと。彼はマスターが弾くのだとたどたどしく教えてくれた。目の前のバーテンダーがその店員に話しかけられる。バーテンダーはの前に酒を置いてカウンターを抜けたかと思うと、おもむろに、ピアノの前にある椅子に座った。マスターというからにはそれなりの年齢の人物を想像していたのに、彼はと同い年くらいの男に見える。冗談だろ。が内心鼻で笑い、いつものようにやり過ごそうとしたその時、無視できない音色がの頭をぶん殴った。

まだあの音が、耳の奥でこだましているみたいだ。寝返りを打ち、重たい瞼を持ち上げる。暗闇にゆらゆらと、小さな赤い光が揺れている。

「起きたか」

タバコの香り。あのバーテンダーが、ソファに横になったを見下ろしていた。
チッと舌打ちし、彼はに人差し指を向けて釘を刺す。

「二度と店の前で寝るな、いいな?」
「………、すみませんでした」

頭痛に苛まれながら謝る。自分が狂人だったら、彼の人差し指に飛びついて、逆方向にへし折っていたかもしれない。それほど、彼の才能に嫉妬していた。
彼に謝るといまだに胸がむかむかしてくる。吐瀉物のにおいがつんと鼻をついた。自分の失態、彼のピアノの腕。思い出すだけで頭をかきむしりたくなってくる。

「あんた弾くのか」
「…?」
「ピアノ。見てただろうが」

起きたら即追い出されるかと思ったのに、彼は意外にもその話題を口にする。
は戸惑いながら、「一応。ピアニストなので」と素性を明かす。

「へえ」

嫌悪とは違う純粋な驚きが彼の顔に広がる。
入店した時は彼の愛想のなさとその手のタトゥーに畏縮したのに、存外子どもっぽい顔をする。なんとなくは拍子抜けした。

「聞きたいところだが、俺はもう店を閉めて帰りたいんでな。さっさと帰ってくれると助かる」

その言葉に、は慌てて体を起こす。ソファの陰になって気づかなかったが、窓からは朝日が差し込みつつあった。
机の上には水の入ったグラス。記憶はないが、飲ませて介抱してくれたのかもしれない。バーテンダーは結んだ髪をほどいている。言葉は相変わらず乱暴だったが、そこには諦めもにじんだやわらかさがあった。

「あの、すみません、いろいろとご迷惑おかけして。水のお金とか、掃除代?とか…その…多めに払います。お金でどうこうなる問題じゃないけど…」
「あーいい、いい。気にすんな。その代わり、街で同じようになってるヤツを見かけたら介抱してやってくれ」

強面に似合わぬ彼の優しさが垣間見える。さすがに罪悪感が胸をよぎった。性格の悪い見下しまでして、勝手に激情し醜態をさらした。ピアノにこだわるあまり、嫌な人間になっていたなと反省した。彼の顔をまっすぐ見られない。すみません。が消え入りそうな声でつぶやく。その謝罪には、酒の失態を詫びる以上にいろいろな意味が込められていた。

「………アー…じゃあ、明後日の夜、あのピアノを弾いてくれ」
「えっ」

思わず顔を上げたと彼の視線がぶつかる。
彼は投げやりにこう言った。

「プロなんだろ?まさかあの言い方でアマチュアってわけじゃねぇよな。それなら客は当然高い金を払って聞くモンだ。そこをタダでやる。それでいいだろ」





思えば、バーテンダーがにとって都合のいい提案をしたのは、面倒な客を体よく追い払いたいという一心だったのかもしれない。
それでもは言われた通りに店へ足を運んだ。馬鹿なヤツだと思われてもいいから、これまで高慢だったぶん、少しでも誠実でありたかった。

「何かリクエストはありますか?ジャズとかがいいのかな」
「あんたの弾きたい曲でいい。一番得意なので…謝罪に値するだけの腕か見る」

店内には、若い店員がふたりと、カウンターの隅で書類らしきものに目を通している壮年の男性がひとり。定員数が少ないのもあるのだろうが、こんなに観客がまばらではたして代償になるのだろうかとは疑問に思う。
バーテンダーは腕組してを見つめている。試される視線には慣れている。ピアノの前に立つと自然と緊張も動揺もしない。銃をつきつけられても平然としていられる自信がある。はハンカチを取り出して鍵盤を拭いた。

「このピアノ、少し長めに弾いててもいいですか?」
「それは構わねえが…」
「ありがとうございます」

バーテンダーの声にかぶせ気味に答える。がすげない反応になるのは、目の前のピアノとの対話を始めたからだ。プロになれば本番一発勝負。若い店員たちの喧騒がの意識のうちから遠のく。椅子に腰掛けた。

ピアノは調律されている。バーテンダーの音に狂いはなかった。途中から目の前が真っ暗になってしまい、あまり音を聞けていなかったが、曲の輪郭の雰囲気は体が覚えている。天才としか言いようがなかった。
心に影が差したその瞬間、は息を吸って鍵盤に指を叩きつけた。

ショパンの幻想ポロネーズ。それがの最も得意とし、同時にものにしきれない曲だ。曲調は時に穏やかに、時に激しく。音の気分は脈絡なく上下し、明るさの中にもどこか影が潜んでいる。つかみどころのない展開と長い演奏時間には体力が求められるが、はこの曲が好きだ。華やかな曲や勇敢な曲よりも、そこには人の生々しいさがを感じる。

楽譜どおりに弾いても、この曲の「幻想」を引き出すことはできない。演奏者の技量はもちろん、曲に対する鋭い感性が求められる。喜び、苦悩、葛藤、運命に翻弄されるショパンの晩年のさまざまな精神性の具現化。それでも最後はひときわ大きく、華々しく燃え上がり、尽きる魂。正解はどこにあるのか。最初は弾きこなすのを諦めそうになったほどだ。この曲を完璧に弾けるのなら、気が狂ってもかまわないとさえ思う。

印象的な最後の一音が落ちる。音が響き渡り、やがて店に静寂が訪れた。
はため息をついて手を下ろした。この曲はいつも不完全燃焼で終わる。それなのにこの曲を弾くことはやめられないのはどうしてなのか。挑戦しても敗れるとわかっていて、やめられないのはなぜか。

「──やるじゃねえか!」
「っ!」

気を抜いていたところに声をかけられて、は心臓が飛び出そうになった。
振り向くと、バーテンダーが目を輝かせてを見つめている。そのまぶしさがまっすぐ胸に飛び込んできて、はあっけにとられた。目が離せない。心臓が、痛いくらいに跳ねていた。

「驚いた、プロってのは嘘じゃねえらしいな」
「い、いいです、そういうの」
「あ?」
「あなたのほうがうまいです、ピアノ。俺のはただ楽譜どおりに弾いてるだけ」

初めてこの曲を弾いた、幼き日のことを思い出す。達成感と同時に虚無感が襲った。自分の思い描くこの曲の理想図と、弾き終わったその曲のシルエットはあまりにも違っていた。悔しかった。あの日から、の戦いは始まったのだ。

「あれを見てもそう思うのか」

あれ、とバーテンダーが背後に向かって親指をつきつけたのは、先ほどの壮年男性だった。薄暗い店内でよく見えないが、彼は眼鏡をはずし、涙を拭っているらしかった。バーテンダー越しにと目が合うと、彼が照れくさそうに会釈したので、もついつられた。





「あんたぶっ倒れてるときも、手だけは傷つかないようにあげてたよ」

バーテンダーがに、中身の入ったグラスを差し出す。おとといの失態を思い出して顔を曇らせたに、バーテンダーは「安心しろ、モヒートのモクテルだ」と付け足す。
モクテル。聞きなれない単語だったが、ノンアルコールカクテルのことをそう呼ぶらしい。

「そんな男が、どうして酒なんかに溺れる?」

作業しながらのバーテンダーの問いかけに、は暗澹たる気持ちになる。
それだけ持っていてどうして。またそう心無く問いかけられた気がした。

「あ。そういや名前、聞いてなかったな。神林匋平だ」
「…です」
「覚えとくわ」

匋平はさっきまでの興奮ぶりが嘘のような落ち着き具合だった。ただ、演奏前ほどの冷たさはない。どこか気心の知れたそっけなさだった。

「あの演奏を聞いて、どう思いました」
「それは…」

匋平は手を止め、目を伏せて考えている。こうして見ると色気のある男だ。口元にある特徴的なほくろといい、柳の木に似た物憂げな雰囲気に吸い寄せられそうになる。

「胸にこう…グッとくるものがある」
「…」
「寂しい音なのに…なんでだろうな。こんなんでへこたれてたまるかって、そう言われてる気がする」

そうだろうか。匋平を知ってしまった以上、自分の演奏にそこまで言われる価値があるとは思えない。
目をつぶれば今でも、匋平の見事な音が思い出される。彼はどんなふうにあの曲を奏でるのだろう。

「俺はあんな演奏じゃ満足できない」
「どういうことだ?」
「わからないけど…あれじゃ駄目なんだ」

匋平の演奏を聞いた時ほどには、自分の演奏に心を打たれない。職業、年齢、性別。匋平のそういう要因を加味して自分と比較すると、余計に負けたと思う。
思考がまたもや負のループに陥っているのに気づいて、はグラスに口をつけた。あの夜もこうして、自分の気持ちをごまかすために酒を飲んだのだろう。炭酸と、ライムとミントの爽やかな香りが、リフレッシュにはうってつけだった。

「ふーん。あんた案外、HIPHOPも向いてるかもしんねえぜ」
「ヒップホップ?」
「やんだよ、あいつらと」

匋平が顎でしゃくった先では、例の若い店員ふたりが掃除道具片手にわいわいと戯れ合っている。彼らの印象とヒップホップという言葉が結びつかない。かろうじて銀髪の店員が、それらしいといえばらしいだろうか。彼は確か、ヤケになったに言われるがまま、酒を注いでくれた店員だ。
あまり自分では聞かないジャンルの音楽だ。せいぜい流行っているのをテレビで耳にする程度かもしれないが、そのテレビも長いこと見ていないし、そんな暇があるならピアノを弾いている。

「今度もやる。気が向いたら来い」

匋平がフライヤーを手渡す。かすかな笑い混じりに上向く匋平の声は、困った酔っ払い客を突き放すものではなくなっていた。締め出されるはずが逆に招かれて、はくすぐったい、妙な気分だった。

エキシビジョン。派手なデザインのフライヤーの、匋平はThe Cat's Whiskersと書かれたところを指差している。その下に小さく、チーム構成メンバーの変てこな名前が書かれていた。コトノハ、God summer、コンプラ大魔王、MC名無し。
二番目の名前がの目に止まる。大胆不敵な名前だと思ったが、ふと匋平の苗字を思い出した。カンバヤシ…“神”林…これだろうか?神“様”にかけているのだろうか。だから夏なのか?よくわからないが、匋平の芸名だとすると、不相応とは思わなかった。
なんにせよ、気が向いたらの言葉に甘えることにする。きっと行かないだろうと思ったからだ。

「あなたもあれくらい弾けますよね、ピアノ」

自分なんかが弾かなくても。暗にそう言った。上に誰がいるのか見えなかっただけで、天才ともてはやされようが、実際は自分の代わりなんていくらでもいるんだろう。グラスの中身を見つめる。小さな泡がのぼり、ぱちんとはじけて消えた。

「そうかもな。だが弾かねえ」

が怪訝そうに顔を上げた。
言い放つ匋平は、神の名にふさわしく堂々としている。匋平のまなざしがの深い芯の部分を見つめる。の意識は自然と匋平の言葉に集中して、他のことを考えられなくなる。

「あんたにしか出せないカラーってもんがある。あの曲はあんたの音が一番本物って感じがする」
「…」

カラー。それはわかる。でも才能がものを言う。カラー以前に、才能は、匋平のほうが圧倒的に上だと思う。
それなのに、真剣な顔でそんなことを言われたら、否定するのも失礼な気がしてくる。腑に落ちないまま、は口をつぐんだ。匋平がわずかに口はしをあげる。張り詰めた空気が緩んだ。

「ま、音楽に正解はねえから、そんなこと言うのはナンセンスなんだが…俺は少なくともそう思った。それくらい、マジで感動したんだぜ。また来いよ。あのピアノも、たまに弾かれれば喜ぶ」





「お好きなところへ、」どうぞ…と案内する店員の声が消え入る。
入店するやいなや、はカウンターまで一直線に突っ切り、氷をナイフで削っていた匋平のほうへ身を乗り出した。匋平の気だるげな瞳は、をとらえるとほのかに面白みを滲ませて光る。

「おっ」
「匋平さん、なんでいたんですか…!」

遠目から、こうして匋平と目が合ったのをは覚えている。先日のリサイタルでのことだ。割れんばかりの拍手の海の中、客席後方、真ん中からやや上手側に匋平を見つけた。どっしり構えて聞いていたらしい匋平と、は確かに目が合った。異質だった。舞台上から見ると客席は薄暗いのに、まるでスポットライトでもあてられたみたいに、それが匋平だとすぐにわかった。
覚えとくわなんておざなりに言われて、正直忘れられたも同然だと思い込んでいた。だからも店には寄りつかないようにしていたのに。

なんだか挑発されたように感じて、結局リサイタルより後の日程だったエキシビジョンを見に行ってしまった。自分が嫌な気持ちになるとわかっていても、匋平がどんな音楽をやるのか気になって。
結果、想像以上に打ちのめされて帰ってきた。The Cat's Whiskersだけではない。匋平の周りには聞く人の魂を揺さぶる、才能ある人たちが集まっているのだとわかったのが、余計に手痛かった。

帰宅後、出来心でThe Cat's Whiskersの歌をピアノで弾いてみた。は耳がいい。初めての曲も譜面ではなく耳で聞いた音から全体像を掴んで入る。しかし、それこそ芯のない音を奏でて終わり、真似事なんてと恥ずかしくなって1回でやめた。その代わり、いつも以上に練習へと打ち込んだ。匋平から距離を置いていた分思考がシンプルになって、彼らに揺さぶられて終わりじゃ味気ないと火がついたのだ。

詰め寄るをものともせず、「まあ座れよ」と匋平が鼻で一笑する。

「出禁でもねえのに、なんでって言い方はねえだろ。単純に、もっと聞きたいと思っただけだ」

「やっぱり最後はあの曲なんだな」匋平がウイスキーのボトルをの前に置く。店内は相変わらず閑散としており、客はしかいない。おいリュウ、と匋平が呼ぶと、銀髪の店員がハァーイ、とすっとんきょうな声を出してカウンターに入った。どぉ~ん!と口で効果音をつけながら、リュウが氷を勢いよく割る。匋平は丸くなった氷を布で拭いて磨き、静かにロックグラスへ入れると、の前に置いた。水晶玉に似た氷の美しさに、は目を奪われる。

「逆にどうだった、俺らの歌」
「えっ?」

匋平の問いかけで我に返る。匋平が歌っているとき、一瞬目が合った気がした。あれは気のせいではなかったのだ。基本着席状態が続くリサイタルと違って、スタンディング形式の、しかもかなり広い会場で聞いていたから、まさかそんなはずはないだろうと思っていたのに、匋平も自分を見つけていたのだ。その事実に、不思議と胸が熱くなる。

「すごかった…です」

洗練された歌という印象だった。他のチームがの想像するヒップホップに近かったのもあって、匋平たちの歌はより異彩を放って見えた。さながら炭酸、ライム、ミントの風味のごとく、清々しい明るい音が、を高い空へとつれてゆく。織り込まれた軽やかなピアノの音色が、覚えとくわと気軽に言う匋平のものだと即座にわかった。

「ヘイッ!いっちょあがりぃ!」リュウが野太い声で、かち割り氷の入ったロックグラスをカウンターに置く。景気よく置いた割りに中身が注がれていない。が頭の上に疑問符を浮かべていると、カウンターを出た匋平がの右隣に座り、ふたつのグラスにウイスキーを注いだ。
匋平がかち割り氷のグラスを手元へ引き寄せる。「俺のおごりだ」そう言って、くわえたタバコに火をつけている。はあ、と気のない返事になる。匋平がふー、と紫煙を吐き出し、「そういやよ」と話を切り出す。

「前にがやった曲を弾いた」
「えっ」
「やっぱり俺とじゃ音が違う。どんなに好き勝手弾いても、満足できねんだ。…それで思い出すんだよ、の音を」

熱のこもる語りにタバコを挟んだ指が揺れると、匋平のにおいがする。どうして。匋平の横顔を見つめながら、は内心動揺した。同じだ。も、匋平の紡ぎだす音楽が頭から離れないでいる。

のありのままの音が俺ァ好きだ。すべて持ってるヤツからじゃ見えねえ景色がある。そういう当たり前のことを気づかせてくれる」
「…」

匋平と出会ったばかりのなら、馬鹿にしているのかと曲解してふてくされていただろう。けれど匋平の言動に、歌に、その人となりを知ったからだろうか、素直に照れくさい自分もいる。匋平の言葉はいつだって行きすぎなくらいストレートなのに、そこに誇張や嘘偽りはないからだ。ピアノを介さず出会っていれば、匋平ともっと親しくなれただろうか。匋平の才能を一方的に妬んでいるのが気まずかった。喜びに早まる鼓動の裏で、言いようのない後ろめたさを感じる。視線をそらし、グラスを手にすると、は折り曲げたひざ先を匋平から遠ざける。キイ、とカウンターチェアが侘しく鳴いた。

「へえ、次は12月下旬ね」

がウイスキーをちびちび舐めていると、そんな言葉が聞こえてきた。横目に窺えば、匋平がくわえタバコでスマートフォンの画面を見ている。約ひと月先の12月下旬という時期に、は心当たりがあった。乗り気はしないが、以前迷惑をかけた手前聞いてみる。

「ほしいならチケット、手配しますよ」
「テメーの金で払いたいんだよ、いいだろ」
「というか…本音を言うと、聞きに来ないでほしいんですが」
「なんでだ」
「聞ける演奏じゃない」
「ふーん。なら次だな」
「次って…」

脱力する。が恨みがましい目で見ても、匋平はそ知らぬ顔で画面を触っている。匋平がタバコに指を添え、深く吸い上げる。伏せられた瞼と、眠たげにも見えるぼんやりした瞳。の知り合いにも喫煙者がいるからわかる。あれはタバコを味わっている人間特有の、陶酔に近い表情だ。紫煙を特段嫌っているわけではないが、そういう表情は自分の存在を忘れさられているみたいで少し苦手だ。アルコールに浸りはじめた脳で、はおぼろげに考える。自分のほうを見てくれないだろうか…。

その時、じゅっと胸の端が燃え上がる音がした。らしくないことを考えた自分に気がつき、は慌ててカウンターチェアから立つ。

「帰ります」
「なんだ、文句だけ言いに来たのかよ。もっとゆっくりしてけ」

からかい混じりの声が投げかけられる。その気安さにほだされそうな反面、胸がじりじりと焦げる。ウイスキーの残りを一気に流し込むと喉がやけて、軽くむせた。

店を飛び出して歩きながら、は混乱した。もはや匋平はにとって、憎いだけの男ではなかった。リサイタルでのことだって、無視すればよかったのに、わざわざ店に行ったのが何よりの証拠だ。自分を見つめる匋平の存在に気づいたあの瞬間を、心の奥底でもう一度ほしがった。たった一瞬の無邪気な瞳の輝きが、網膜に強く焼きついて何度もちらついた。

の頭の中を少しずつ、匋平の暖かい光が場所を広げている。にとってのピアノくらい、匋平の存在が大きく育ちつつあった。だから心は惹かれているのに、ピアノのことがあるから、匋平のそばにいると苦しい。匋平が見た目どおりの冷たい人間だったらよかったのに、なまじ優しく笑いかけてくるから戸惑う。あのとき、ピアノの約束を守るんじゃなかったと後悔した。

すべてなかったことにしてしまいたくて、コンビニで安酒をたくさん買った。その日、寝た時間は思い出せなかった。





暗闇にメール通知が浮かび上がる。旧い知り合いからだった。内容に目を通して、は家を出た。

泥酔して嘔吐した夜の苦痛は覚えている。くるしい、くるしい。その4文字が頭の中をいっぱいに埋めて、他のことは考えられなかった。
それでよかった。連日、年末のリサイタルに向けてピアノを弾いても、迷いが感覚を鈍らせていた。匋平への思いを止めるにはすでに手遅れだったのだと悟った途端、集中しきれなくなり、外をうろついては酒を飲んだ。おくびがこみあげてきて、その勢いのまま吐きそうになる。胃がたぷたぷと酒に浸かっているのを感じる。ためらっても、苦しくても、飲むことはやめない。こういうのも自傷というんだろうか。上着を脱いで手に持ち、シャツの袖をまくる。アルコールが回って体が熱かった。

その晩、酒を浴びていたは、サイレンをあげながら道路を走っていくパトカーと救急車をぼうっと眺めていた。よそ見して歩いていたそこを運悪く、ガラの悪い連中にぶつかった。呂律怪しく謝ったものの、去り際に思い切り背中を蹴られ、受身も取れず道に突っ伏した。上半身を起こすと、ひりひりとした痛みを肘の上辺りに感じた。見ればすりむき、血がにじんでいる。

浅い傷とはいえ、ひとつ間違えば商売道具の指や手のひらをすりむいていたところだ。徐々に息が荒くなってくる。自分の軽率な行動に肝が冷えていく。こんなことで唯一の取り柄すら失いかけるなんてらしくもない。頭がこんがらがり、嗚咽が漏れた。こんな自分が、年末のリサイタルではどれだけ無様な姿をさらすのか。ついに誰からもそっぽを向かれるのではないか。ショックのあまり、突拍子もない想像が思考を侵食し、現実と妄想の境目があいまいになる。喉奥に押し寄せるアルコールの波。気道が狭まったように呼吸が苦しい。視界がぼやける。周りは暗く誰もいない。パニックだった。怖い。声もなくうずくまる。

「──おい!大丈夫か!?」

ふいに背後から、誰かに二の腕をつかまれた。ひゅっ、との喉が鳴る。

「…あ…」

匋平の声だった。振り向いたの吐き出す息に、匋平がチッ、と舌打ちする。
「…酒くせぇ」匋平がしゃがみこみ、自分の肩にの腕を回した。ふわりとタバコの匂いに包まれる。の手首を握る匋平の手は慎重だった。

「ほら、つかまれ。立てるか」
「…すみませ…、いっ…つ…」
「待て、どっかひねったのか?手首か?」
「いや…ひじ、すりむいただけ…です…」

足にうまく力が入らないまま、匋平に支えられて歩き出す。どこへ行くのかと思ったが、近くにあった公園のベンチまで連れていかれた。
ベンチに散ったイチョウの葉を手で払い、匋平はをそこへ座らせると、ちょっと待ってろとその場を離れる。少しして戻ってきた匋平は、ミネラルウォーターのペットボトルと何か小さな箱を手にしていた。が呆けていると、匋平が隣に座り、の腕をやんわりつかんだ。

「見せろ。…ったく、馬鹿みてえな薄着しやがって。プロなら体調管理も仕事のうちだろ」

匋平は傷口に水をかけながら、軽くこすって汚れを取っている。匋平の言葉で、は上着を忘れてきたことに気がついた。転んだ拍子に手から離れたのだろう。
匋平に言われなくともわかっているが、この有様では返す言葉もない。観念して俯いていると、「なんでそうやってあんたは…」と小さな声がした。視線をちらりと持ち上げれば、もどかしそうに歯噛みしている匋平の顔が目に入る。目を伏せ、まるで自分ごとのように痛切な顔をするから、酒で焼けたの胸がじんわりとひりついた。匋平が大きなため息を吐き出す。

「酒に酔うくらいなら、その気持ちを鍵盤にぶつけろ」

同じ音楽を愛する者としての助言だろう。もちろん、だってそうしてきた。人生のすべてを音楽の糧に変えるつもりだった。でも今、溢れて取りこぼしてしまう初めての気持ちがある。そして己の力不足を痛感する傍らに、匋平の幻影がある。夢にも現にも、と、自分を呼ぶ匋平の声がする。「匋平さんは」ぱち、と視線が合った。数秒してそらされる。腕を少し引っ張られた。

「自分なんていらないとか、思いませんか」
「思わねえ」

即答だった。絆創膏を貼る匋平は毅然としている。手当ては少し染みたが、よくよく見ても取り乱すほどの大げさな傷ではなかった。はやるせなさにうなだれる。

「どうしてそんなに俺のことを構うんですか」

自分を見捨てず優しい匋平に、何もかもぶちまけてしまいたい。自分の本音を、醜い嫉妬を、口にしたら匋平はどうなるのだろう。軽蔑するだろうか。見損なうだろうか。それとも、驚くだろうか。悪く言えば、期待した。自分より上位の存在である匋平が、下にいる自分なんかの言葉に、わずかでも心をかき乱されるんじゃないかと。

匋平はの腕をそっと離すと、正面を向き、ベンチの背もたれに深く沈みこんだ。

「さあな。たらたら文句のうぜえただの酔っ払いなら、こんなに気にかけてなかったのにな」
「…」
「ピアノ。好きか」
「………たぶん」

ふ、と匋平が笑った。匋平はタバコを取り出し、ちょっと考えてポケットへしまいなおす。そのまま両手を足の間へ下ろすと、祈るように手のひらを合わせ、指を交差させた。

「ガラじゃねえけど…俺は音楽に救われた。同じだと思った。あんたも俺と」
「…」
「自分が自分でいられる場所を探してる。そんな気がすんだ」

自ら神を名乗るくせに、救われた、なんて。顔を上げれば、匋平がを見つめている。明るい色の瞳が、夜空に浮かぶ月とともに静かに光り輝く。
わずかな熱を帯びた、優しいまなざしだった。胸にあたたかいものがこみあげてきて、じわ、と涙がにじむ。それなのに、ただただ辛い。

忘れてしまいそうになるから、駄目なのだ。自分が目指していたものを、積み上げてきたものを、その結果たくさんの人からもらってきたものを、目の前の匋平といるためだけに、捨ててもいいかなと、そう心揺らいでしまう。

匋平のことを思うと、ピアノについて真剣に悩んでいる意識が遠ざかる。その存在に、時には安らぎすら得て、葛藤を忘れてしまいかける。ピアノのためには常に魂を削り、進んで茨の道をも行く覚悟でいた。それがどうだろう?匋平を前にすると、は自分を制御する術をなくし、匋平に主導権を握られている気分になる。単純に怖かった。ピアノと匋平の位置が摩り替わることが。今の自分を築き上げてきたのは間違いなくピアノなのに、匋平のもたらす未知の明るい光は、目をくらませ、それを忘れさせてしまう恐ろしいものであると、理解しつつあったから。

「匋平さんを見てると自分が惨めだって思い知らされる」

自己喪失の恐怖が理性を上回り、とどめておいた心の声が反射的に漏れた。

馬鹿言ってんじゃねえ、そうたやすく一蹴してくれたらよかったのに、真に受けた匋平は目を見開き、らしくなく顔をこわばらせている。
望んでいた表情だった。

「もうほっといてくれ。あんたの慰めが一番傷つくんだ」
「…っ、」

何か言いかけた匋平には目もくれず、はベンチから立ち上がると、その場から足早に立ち去った。匋平は、追いかけてはこなかった。

止められなかった。ちっぽけなプライドが満足したのを察して、は愚かな自分を嘲笑った。同時に、口から出た言葉を何度も悔やんだ。本心ではあるけれど、何もあの言葉が匋平に向けるすべてではなかった。匋平の言葉や態度、何より存在そのものに救われて、心穏やかであれた瞬間もあったはずだ。それなのに自分は、恩を仇で返し、一方的に関係を台無しにした。

途方に暮れながら歩くの鼻先を、ふと、煙たい匂いが掠めた。その匂いに疑問を抱いて足を止めた刹那、それまで気にも留めていなかった街の明かりや、吹きすさぶ北風の鋭さ冷たさ、冬の花と枯れた木々と湿った土の香り、民家から聞こえる生活音や、傷を修復する皮膚の微細な動きまでもが、みるみるうちに内側へと鮮明に立ち現れ、圧倒される。
五感に導かれて空を見上げれば、とうに日も暮れたのに遠くの空がやけに明るい。立ち尽くすの横を、消防車がけたたましいサイレンを上げて走り去っていく。

見送りながら、嫌な想像がの頭をよぎった。まさか、自分の家が燃えているんじゃないか。──ピアノは。
不安に駆られるやいなや、は匋平への悔恨などすっかり忘れて走り出していた。

頭の中を音楽が鳴り響いて止まない。家に近づくたび、煙の匂いが鼻をついた。ところが結局、まったく別の方角で火事があったようだった。額に汗を滲ませ、荒く呼吸を繰り返しながら、は、遥か遠くで燃え盛る炎の色をしばしの間眺めていた。

家に帰り、ふらふらとピアノの前に座った。アルコールと息切れで曇っていた脳内が晴れて、擦り傷の痛みが遠ざかる。意識がすーっと一本の糸に縒って収束していく感覚。指を鍵盤に乗せる。いける、と思った。

そうして月夜に広がったピアノの音色は、確かに今までとは違う音をしていた。演奏を終え、はメールの返信画面を開く。心は未だ鎮火せずいるのに、頭は至極冷静だった。





年内最後のリサイタルの日がやってきた。今朝、は絆創膏をはがしてゴミ箱に捨てた。

あの夜の火事に、幸いにも死傷者はなかったそうだ。あれから心を入れ替え、何度も何度も練習を重ねたプログラム。ラストを飾るのはもちろん幻想ポロネーズだ。がいつも最後に弾くその曲を、誰かが挑戦と呼んだ。
火事があった日のコンディションは過去最悪だったのに、それまでで一番の演奏ができた自負があった。思いの呪縛から解き放たれて自由になり、清々しいのに、心は隙間風を受けて寂しい。弾き終わった鍵盤の上へ涙が落ちる。脳裏にその場面を蘇らせて、は最後の曲を踏み出す。

甘い音色に滲む悩ましさ、切なさ。懐疑。音楽を始めたときに感じた、あのときめき。驚きと、打ち震えるほどの歓喜。狂おしさ。戸惑い。そして、孤独。
水を吸い上げて咲く大輪の花のごとく、指先の末梢神経が開花する。の中に残った匋平への思慕が揺れると、五感が残響まであますところなく拾い上げ、また新たな音を指先が巧緻に創造する。もはや溢れきってしまうことはない。嬉しさの裏にいつも恐怖があった。はっきりとした痛みや絶望を感じた。匋平を手に入れられるなら、気が狂ったっていい。そんなふうに愛に狂えたらどれだけよいだろう。感覚を麻痺させて、匋平以外を忘れられたら。けれどの中心には、いつだってピアノの存在があった。今はもう、手当てをしてくれた匋平の手の体温すら思い出せない。

の視界が明るくひらけていく。気づかぬ間に口元が綻んだ。この場にいない匋平の幻影に強く焦がれた。これで終わるのが今更になって惜しかった。痛みを忘れて、嬉しさもつかみきらないまま、心の形をはっきりと覚えることもなく、匋平との関係を続けられていたら──

の顎を汗が滴り落ちていく。現実へと立ち向かう最後の一音を踏み切ったとき、はようやく、出会った日の匋平を飛び越えた。

放心気味に立ち上がれば、眼前にまぶしい光が広がる。客席は一様に薄暗く、顔の区別などつかない。がはあっと大きく息を吐き出した瞬間、拍手が沸き起こった。
Bravo。まさにその言葉どおりの演奏ができた気がした。変わらず孤独はあった。高みへ到達する過程で振りほどいたものへの哀愁。それでもなお捨てられない執着。これでいいのだと思った。手に入れられないもの、届かないもの。埋められない痛みこそが、を見えぬ頂へと誘う。汗に混じり、誰にも気づかれず、涙が一筋流れた。

服を着替えて会場を出ると、誰かに声をかけられ引き止められた。
見れば、壮年の男性がに向かって歩いてくる。見覚えのある顔だった。

「あなた、あの店の…それに匋平さんと一緒にいた…」
「そうだ、見ていてくれたんだったね」

思い出した。あのときの客だ。エキシビジョンのステージで彼を見て、どこかで見た気がすると引っかかっていたのだ。初対面のときは容貌を明確に把握しきれていなくて、会話も交わさなかったし、彼ももっとラフな格好をしていたように思う。そうしてフォーマルに近い装いをしていると気がつく。匋平は若い店員ふたりだけではなく、この男性も含めて自分の仲間だと言っていたのだ。

「今晩の君の演奏。とても感動したよ。よければまた、あのピアノを弾いてくれないかな」
「いや、勝手に弾くわけには…」
「ああ、それはかまわないさ。私があの店のオーナーなんだ」
「えっ…」
「もちろんタダでとは言わない、でも、」

「あの」オーナーの逸りがちな言葉を遮る。

「神林さんに弾いてもらえばいい話ですよね。従業員だし」

俺より腕は上だし、という卑下の言葉は浮かんでこなかった。匋平の音色を想起しても、もう胸が焦げ付くことはない。匋平のピアノに対する姿勢は真摯だが、ピアノを専門に生きているわけではない。あの時は気にもしなかった些細なほころびや音の跳ねが、今はアクセントではなく悪目立ちして聞こえる。味と言えば聞こえはいいが、欠点と言えばそれまでだ。
遠まわしに断ったのに、彼はなぜか微笑ましそうにを見つめている。匋平の知り合いなのもあって、若干居心地が悪かった。

「気づいていないのかい」
「何をですか」
「君のことを語る匋平のまなざし。匋平を思う君の瞳の優しさ」

は目を伏せた。あの夜、匋平の瞳に秘められた熱が、自分の見間違いであったらと願っていた。
これ以上、踏み込まれてはいけない。変に期待をさせて裏切るより、早々に諦めたほうがお互いのためだ。

「俺、フランスに行くつもりです。知り合いに誘われて…。だからもう神林さんに会うことはありません。あの店にも行かないです。すみません」

がそう言い切ると、彼は一瞬声を失い、それから物悲しげに笑った。

「君は…大切な友人を捨てられるのに、ピアノは捨てられないんだね」

冬の乾燥した空気が頬に痛い。「悪いですか」何をわかったようなことをと思った。瞬きすると、乾いたの目からは涙が勝手にこぼれた。

「いいや、悪くなんかないさ。君は大切なものを天秤にかけて苦しみ、悩みぬいて選択をしたんじゃないかと私は思うよ。そこに楽なんてないだろう」
「捨てられません。ピアノは俺のすべて。どんなに孤独でも辛くても…ピアノは常にそばにあり続ける。ピアノのそばにい続ける。そういう人生だった」

そしてそれは、これからも変わらないだろう。濡れたまつげを指でぬぐう。数日気持ちの整理をしてきたおかげで、感傷は少なかった。

「もし、どちらも捨てない道があるのなら。君はそれを選ぶだろうか」
「…そんなもの、ありません。匋平さんの才能は本物。それをねたまずにそばにいられるほど、俺はできた大人じゃないから」
「この先成長した君が、匋平の才能を凌駕することがあっても?」
「それはない」

今日の演奏で、は匋平を超えた手応えがあった。そう、現時点でなら。

「同じ人間だからわかる。俺もあの人も、今いる場所に満足できる人間じゃない。たとえ一瞬追い越せたとしても、俺たちは目の前に山があれば上り続ける。あなただってわかってるはずだ。あなたもそういう人間なんだから」

今夜の演奏が終わったはなから、は次の演奏や先のことを考え始めていた。それが答えだ。彼が押し黙った。

「日本でやれることはすべてやった。それでも満足できないなら、ここにいるわけにはいかない。その知り合いにも、音楽学校の講師をしないかと招かれたので」
「匋平は、いいのかい」
「何がです」
「今の君は、人生をかけて海を渡るつもりでいる。そのことを友人の匋平に知らせないのは、酷じゃないかな」

夜風がの首筋をすり抜ける。治ったはずのすり傷が、ぴりりとひきつった気がした。
それに気づかなかったふりをして、はコートのポケットに手を突っ込むと、下を向き、何も答えず歩き出す。

「真の孤独に、完成する音などない」

去るの背中へ彼が呟く。静寂が闇を支配していた。





冬の街はイルミネーションでにぎやかに彩られる。その明かりから少し離れたところを、はひとり歩いていく。今日の自分の最後の演奏が、まだ頭の中で繰り返されている。

──もし、どちらも捨てない道があるのなら。君はそれを選ぶだろうか。

わからない。これまで忘れたりいい思い出に変えたりして、いろんなものを捨ててきた。無論、何かを捨てたら勝手にピアノが上達するわけではない。けれどにも心がある。だからこそ、その心をかき乱すものは排除して、その心臓の鼓動をたったひとつ、ピアノに捧げてきた。

烈しい北風がの背中を押す。枯葉が転がり地面を掃く音がする。
風に乗って、ふと背後から、煙の匂いがする。癖のあるフレーバーに、がはっと足を止めた。

「聞ける演奏じゃねえとか言ったの。ありゃ嘘か」

タバコの香りのさざなみを、どこかやわらかさを含んだ声がかきわけ泳いでやってくる。出会った時は憎く忌々しかったその声が、今は。

風が止み、辺りがしん、と静まり返る。
はあ、と呆れでか疲弊でか、の背後で息を大きく吐き出した音がした。

。行くな」

そのひとことで、の目にはいともたやすく涙が押し寄せてくる。「…匋平さん…」泣きそうなのを悟られぬよう、は息を殺す。

「俺のそばにこないでください。俺の身勝手で、またあなたを傷つけるから」
「それでもいい。…だからひとりで行くな。黙って消えんじゃねえよ…」

縋る匋平の声。落ち着きかけていた心が、過去にしようとしていた彼の存在が、うねり、波打つ。

「どうしてわからないんですか。俺は…あなたのことが嫌いなんです。憎くて憎くて、目の前から消えてほしいくらい」

あの曲のようにうまく幕引きできないのが腹立たしい。の肩は震えていた。匋平はへ静かに近づき、その背中に右の手のひらを当てる。ピアノの最初の音を確かめるときと同じ。神経を研ぎ澄ますと、いやに早い鼓動の音がした。

「別に嫌いでいい。ただ、俺のためだとかって黙って行こうとすんのは、…筋がとおらねえだろ。それならいっそ砕いてくれ。お前に中途半端に大切にされるのが、一番傷つく」

身を翻した拍子に、の頬を涙が伝った。目の前には弱気にも見える顔をした匋平。そこに神様はいない。

「俺の行動が、優しさからだとでも思ってるんですか。思い上がりですよ」

そうだ。自分は最低な人間だ。だから彼の前から立ち去ろう。彼の心になるべく足跡を残さずにいよう。心からぶつかり合って自分が、彼が、悲しみに暮れることなんてないように。お互いにとって本当に大切な、音楽だけに集中できるように。

「お前の音を聞いてわかったんだよ」

匋平の右手がの頬に伸びた。の頬に残る涙の筋を、匋平の親指がぬぐう。、と匋平が名前を呼んだ。

「俺のそばにいると、死ぬほど苦しいだろ」
「…」
「なら一生、苦しませてやる」

親指の上を、熱い涙が再び伝った瞬間、匋平は目を伏せてそっと顔を近づけた。匋平さん。そう間近で呼ぶの声を、匋平の唇が湿った吐息ごと飲み込む。重ねた唇をゆっくりと離し、匋平が口端だけでちょっぴり無邪気に笑う。匋平はいつもそうやって、の心に臆することなく飛び込んでくる。
頬にある匋平の手に自分の手のひらを重ねながら、が泣き笑いをこぼした。

「馬鹿じゃないですか…」
「馬鹿はどっちだよ」

そう言って、匋平が呆れながらも優しく笑った。