君は声がいいから、歌手になるといいよ。







「あ、あー……。どうも、こんばんは」

ワンルームに侘しく響くアコースティックギターのEコード。壁には防音シートが貼られている。
チューニングを続けながら、ぽつぽつと増えていく視聴者数を、はちらりと盗み見る。

「今日カバーする曲は……」





「あ」

赤いスウェットの袖から、綻んだ赤い糸が伸びている。こういうときは無理にちぎらずはさみか何かで切ったほうがいいのだと父が言っていた。けれどは、そのひと手間が煩わしくて、結局手で引きちぎってしまう。どうせ切ろうがちぎろうが、伸びてしまったそれはもとには戻らないのだから。後で捨てようと、丸めて机の端に置いておく。

今朝は一限目から必修科目の講義が入っていた。早めについた大講義室の人はまばらで、は黒のワイヤレスイヤホンをつけると、講義が始まるまで昨日のアーカイブを見直す。
常連のリスナーと、偶然迷い込んでしまったらしい人数も含めて2、30人。学校の1クラスぶんくらいだが、他と比較すると多いほうではない。大体いつもこの程度だ。昨日はどちらかといえば多いほうだった。

(増えねーなあ……)

いつも欠かさず生配信や動画を見てくれる、いわゆる固定ファンがついているのは御の字だとは思う。彼らが熱心にコメントをくれるのも、全く嬉しくないわけではない。

けれど、その人たちがいずれ自分の声に飽きたとき、自分には何もなくなってしまうような、そんな漠然とした不安がある。高校時代から始めた動画配信だったが、晴れて大学生になった今日にいたるまで、まめにコメントをしてくれていた人がある日突然消えてしまったことは、ある。
そのときのことはよく覚えていた。どうしていなくなってしまったのか、自分が何かしてしまったのか、愛想をつかされたのか──悩みに悩んだ末に、その人にも生活があって、忙しかったりなんだりして、動画を見る暇がなくなってしまったのかも、と自分を納得させた。だが、本音を言ってしまえば、見限られたのだ、という思い込みが、今でも根強く残っている。

の耳で、渾身のサビ部分が流れる。それもどこか虚しい。どうせ誰も聞かないのにと、聞いてくれている数十人のことを軽く考えてしまったのも、自己嫌悪に拍車をかける。
配信を始めた頃は、こんなふうにひねくれていなかった。もやもやしている自分が嫌で、背もたれに勢いよく全身を預けて宙を仰いだ瞬間、「いっ」「いでっ!」後頭部に軽い痛みが走る。背後からした声との声が重なった。

後頭部を抑えて上体を起こし、背後を振り返ると、そこには顔を抑えている男子生徒がいた。恐らく、何かしらの理由で身を乗り出していた彼の顔との頭がぶつかってしまったのだろう。
首から下げた赤いヘッドホン。よく見ると、首にファイヤーパターンのタトゥーが入っている。しかめた顔立ちは、どこか近寄りがたい、気難しそうな雰囲気があった。は慌てて謝る。

「すみません、後ろ気づかなくて!大丈夫ですか?」

この講義は2年生の必修科目なので、彼はと同じ2年生だろう。文句を言われるかもとひやひやしたが、彼は「いや、大丈夫です……」と存外高めの声で、謙虚に謝った。

すみません、ともう一度繰り返して前を向きかけたを、「……っあの!」と彼が呼び止める。

「あ、はい」
「そ、その動画。もしかして、あなたのですか?」

言葉に詰まった。動画には顔こそ映っているが、配信をしていることは親にも友人にも話したことがない。「えと……」そうです、とか細い声になった。いたたまれなかった。

「やっぱり!あのっ俺、」

その時、チャイムが鳴った。咄嗟に、「すみません、またあとで」と話を切り上げたは、彼の瞳が爛々と輝いていたことを知らなかった。





講義が終わり、朝一の講義に熟睡していた生徒も講義室を出ていき、入れ代わりに次の講義の生徒が中に入ってくる。だが、は着席したままだ。

「あのー……」

この曜日は、1時限目の講義が終わると、は午後の講義まで予定がなくなる。大抵、外のベンチで動画配信についてあれこれ考えていたり、課題があるなら図書館に向かっている。

講義前に何かを言いかけていた背後の男子生徒に、何かひとことかけてから去ろうと思ったのだが、彼は熱心にキャンバスノートへ何かを書き込んでいる。ものすごい速度でだ。さっきの講義の内容のおさらいでもしているのかと思ったが、盗み見た内容がまったく違うというか、何ひとつ読み取れなかったので、は彼に聞こえるように、顔を近づけて「あの!!」と大きな声を出した。

「えっ!?」

驚いた彼の手からシャープペンシルが落ちた。は、床に落ちたそれを拾うと、「終わりましたよ、講義」と渡しつつ教えた。

「す、すみません。なんか、スイッチ入っちゃって」あちゃー、という顔で引きつり笑いのまま頬をかいている彼に、「や、別に。俺になんか用でした?」とはリュックを持ち上げて席を立つ。彼がまだ何か言いたげな雰囲気を察して、はその場に立ち止まると、「このあとってなんか用事ある?」と彼を見下ろし聞いてみる。彼はその顔に似合わず、子どものように首を何度も横に振った。

「いや、ない、ないです」
「てか、聞いていい?さっきから思ってたけどなんで敬語?」





どうせしっかり見られてしまったのだ、隠す必要もない。大学という場所は、広くていろんな人がいて、こういう脈絡のない出会いがあるのがいいなと、は内心密かに思っている。

ベンチに腰掛けたの横で、男子生徒──朱雀野アレンが、から借りたスマホとイヤホンで、集中して動画を見ている。そろそろ動画が終わる頃合いだと思ったのに、アレンの指がスマホをタップしたのが見えて、は慌ててスマホを取り上げた。おすすめ欄には流行曲の動画と一緒に、自宅ボイストレーニングの動画がいくつも並んでいる。最初に見せたのとは違うの古い動画の音声が、アレンの耳元のイヤホンで流れていた。

「あっ。なんで取るんだよ。まだ聞いてたのに」
「もういいよ、聞かなくて。古いやつとか聞くに耐えないし」
「そうかあ?」

鋭い目つきとは裏腹に、アレンは目を丸くしながらイヤホンを外してに返した。

「すっげえいい声してるし、別に隠さなくてもいいだろ」

その言葉に、は返事に詰まった。

──君は声がいいから、歌手になるといいよ。

どろ、と胸に黒い澱が溢れる感じがあった。はあ、と大きく息を吐き出すと、は重い思考を振り払う。

「別に。いい声してるからって、伸びてるわけでもないしさ。そういうことじゃん」

は、TwitterやInstagramといったSNSの類を使っていない。YouTubeの動画1本でやっている。だから、目に見える指標は、視聴者数や再生回数、コメントやチャンネル登録といったものだけだ。
数字は残酷なまでに正直である。どんなに温かいコメントをもらおうが、同じ動画配信でバズったものの数字を見れば、その差は歴然としている。の動画や生配信では、雑談は抜きにして、歌うことに専念している。一時はそういうスタイルも考えてはいたが、録画したのを見て性に合ってないと気づいてやめた。だから、活動の底に隠れた卑屈さは、誰にも話したことがない。しかし、アレンに本音を零すと、勝手に背負いこんでいた義務感みたいなものが、消えないまでも少し楽になった気がした。

「何?」

こちらをじっと見つめるアレンの瞳に、はたじろぐ。目つきが鋭いから迫力がある。そんなことないとか、そういう慰めが返ってこないのはありがたいが、どうしてこうも凝視されているのだろう。
アレンが自分の鞄を探り、ノートを取り出す。に向かって開かれたノートは相変わらずぐちゃぐちゃで、改めてじっくり目を通しても、何が書かれているのかまったくわからなかった。

「あのさ」

さっきまで勢いづいていたアレンの声が、どこか強張っているように聞こえた。その頬が、少し赤くなっているようにも。

「俺が、の曲を作ってみてもいいか」





アレンに出会ってから、は初めて、Twitterを始めてみた。といっても、告知専用のアカウントだ。今まで投稿してきた動画のすべてにリンクを貼った。今になってそんなことをしたのは、賭けてみたかったからだ。

次の新しい動画を上げたら、2週間の猶予を設けるつもりでいた。その期間中に何も変わらなければ、もう動画を上げることも、どこかの誰かに届くよう歌うことも、何もかもやめるつもりでいた。ネットの広大な海から、姿を消すつもりだった。には、今更失うものなんて何もない。
次の動画で歌うのは、今までやってきたような既存曲のカバーではない。

ノートパソコンを立ち上げて、更新日時が一番最新の音声ファイルにカーソルを合わせる。ファイル名は『.wav』。作成者名は『朱雀野アレン』。これに合わせて、はボーカルを録音する。少し考えて、ボーカルファイルの名前は『朱雀野.wav』にした。歌詞もタイトルも決まっていたが、なんとなく、そうした。すがさの、は登録されていないのか変換できず、すざく、と打ってから、の、を付け足した。

これが最後だという心持ちでボーカルを録音し、アレンの音源と合わせて調整を加え、投稿時間の予約は19時ちょうどにしてみた。今まで更新した動画の中で、一番再生数があったのはこの時間帯だ。とはいえ、それも微々たるものではあるから、ほとんど願掛けに近い。

はいつも諦めていた。自分はどうせ誰にも見つからない、見つかって誰かの心にひっかかったとしても、それは一瞬のことで、いつかは忘れ去られていくのだと。自分が覚えていても、誰かに消費されて終わって、きっと誰の心にも残らない。

──俺が、の歌を作ってみてもいいか。
しかし、願掛けなんてものをしてしまうほど、が諦めきれなかったのは、アレンの瞳の奥にある炎に圧倒されたから。ふたりで相談しあい、そうして出来上がった曲が、なぜかまるで、自分のことを何もかも知っているかのようにぴったりで、心の琴線に触れる曲だったから。

自分のことは諦めてしまっても、アレンの曲のことは諦めたくない。ならば自分も、諦めている場合ではない。これで最後になるのかもしれないのだし。

19時になった。Twitterのフォロワー数は少なかったが、事前に告知しておいたからか、今日は少し人が多く感じられた。

しかし、曲が始まっても、あまり爆発的な変化は見られない。
は、自分の心がボロボロと崩れていく感覚を覚えた。自分の歌が評価されないに留まらず、せっかくのアレンの曲が多くの人に届いていないこと、その曲を届かせる力が自分にはなかったこと。その事実が、の芽生えかけていたやる気を踏みつぶしていく。

がアレンの曲を聞いたとき、それはまさしくビッグバンだった。同い年のアレンが、こんなにも素晴らしい才能の持ち主であることを知らなかった。嫉妬も悔しささえも湧き上がらない、純粋なワクワクが、もっと聞きたい、歌いたいと思わせるパワーが、の心を突き動かした。

大きく変動しない視聴者数を茫然と見ながら、の頭を、ふいにあの呪いの言葉がよぎる。

──君は声がいいから、歌手になるといいよ。

4日経った。
視聴回数はそれほど増えなかった。
1週間経った。
同じだった。
折り返し地点を過ぎ、は、幾度もすべての動画を消してしまいたい衝動に駆られていた。アレンの力に頼って浮かれていたことの恥ずかしさ、情けなさ、ふがいなさ。すべてに押し潰されてしまいそうだった。

しかし、12日目にそれは起こった。
Twitterで、切り抜きされたの動画が、無断転載されていた。呟きにはたったひと言。
『見つけちゃったかも』。

ツイートには、5000を優に超える『いいね』がついていた。


□□□


たとえるなら青。それは、爽やかな朝の空のようでもあるし、時には、サファイアのように艶やかに輝くこともある。

アレンがその歌声と出会ったのは、課題に追われていて、気を紛わせるためにYouTubeの動画を垂れ流しにしていた時だった。

もちろん、お気に入りのプレイリストをガンガンかけて課題に励んでもよかったのだけれど、大体そういうことをしているとインスピレーションに襲われて、本来やるべきことに手が回らなくなってしまうのだ──というようなことを、同居人ふたりから口酸っぱく言われていたので断念していた。
かといって、無音はあまり好きではない。アレンの人生には、常に音楽がある。アルゴリズムが次々に動画再生してくれるのを頼りに、アレンは締め切りギリギリの課題に取り組んでいた。

「はい、こんばんは」

ふと耳に飛び込んできた声に、アレンは指を止めた。いい声だ、と思った。

アレンも含め、BAEの3人は声が高めだ。イヤホンから聞こえてきた声は低くて、しかし渋いわけでもなく、なんというか、大人になる一歩手前の青年、あるいは青年と少年の狭間、夢の覚めかける間際で聞くような、絶妙な繊細さと、なおかつしなやかさを含んでいた。天性の声と言っても過言ではない。とにかく、今までに聞いたことのない声だった。

アコースティックギターをチューニングする音。思わずアレンは、バックグラウンド再生していたYouTubeの画面を開いていた。
画面には、自分と同じくらいの年齢の青年が映っている。ちょっぴりびっくりした。もう少し大人っぽいイメージだったからだ。白いTシャツの下に隠しているらしいシルバーネックレスのチェーンが、時折ちらちらと見える。

そうして歌われたのは、ちょっと前に流行った女性シンガーの恋愛バラードだった。切ない恋心を歌った曲が、青年の儚い声によく合っている気がする。
だが、アレンは眉根を寄せた。

これは、彼が好きな曲なのか?それとも流行ってたから?
数件あるコメントの、『素敵な歌声ですね』という内容には同意する。しかし、キーは確かに彼の声の範囲内だが、もっと合う曲がある気がする。いくつか思い浮かべて、やっぱりこの曲は合ってない気がすると、アレンはますます顔を険しくする。

アレンは、音楽で自分自身を表現することを生きがいとしていた。自分がしたいこと、訴えたいこと、親に阻まれて叶わなかった自分の本当の気持ちを、全部全部、音楽にぶつけてきた。

動画が再生し終わり、次の動画に飛ぶ。次の動画は別の配信者の、流行曲の解説動画だった。けれど、その動画の音声もまったく耳に入らず、気づけばアレンは、メモ用のノートを開いていた。

彼が、自分にはない声を持っていたからだろうか。この声が、誰か俺を見つけてくれと叫んでいる気がしてならないからだろうか。最初に聞いた彼の声、動画で見た彼の雰囲気。彼がどんな人生を歩み、どんな性格かは、残念ながらわからなかったが、この声にこんな曲調を合わせたら、こんな歌ができるかもしれない……。どんどん想像が膨らんだ。とにかく、彼の声が最高に生きる一曲を──

翌日。アレンはノートに突っ伏して寝落ちていた。課題の締め切りをとうに過ぎており、顔面蒼白になりながら、担当教員である西門に相談したところ、温情から2時間なら待つよと言われて、目を回しながら課題を仕上げた。その頃には、あの声のことをすっかり忘れていて、彼を思って書きなぐったノートだけが、ひっそりと残っていた。





「朱雀野みたい」

近頃は、日が落ちるのが早くなった。キャンパス内のガーデンテーブルに腰掛けて、アレンの目の前にいるが呟く。その声は、あの日聞いたのと同じ。何度聞いても惚れ惚れする声だ。華があるのとは少し違うけれど、人を惑わせて惹き寄せる、魔性みたいなものがある。

あの日、後ろからちらりと見えたの横顔に、彼が見ていた動画に、首元から覗くシルバーのネックレスに──まさか目の前にいるのか?なんて、逸る気持ちを抑えきれず前のめりになってぶつかってしまったけれど、それも結果、いい方向に転んでよかったとアレンは思う。

『俺4限まであるんだけど、その後会えたりする?』

からの連絡を、アレンはもちろんイエスで返した。絶対、バズったあの動画の話になると思って高揚していたのに、テーブルで待っていたアレンに、は開口一番、「本当にごめん」と謝った。

どうして謝られたのかわからず困惑し、聞けば、「あの曲、俺が作ったと思われてる」とはしょげた様子で俯いた。「本当にごめん、説明のところに書いてたし、見えるところとか、Twitterとか動画で、俺の曲じゃないって言ってるんだけど」と言うの顔は、どこか憔悴して見えた。立ち尽くしたまま、どうしよう、と泣きそうな顔で漏らしたを、アレンは「そんなの、のせいじゃないだろ」と慰めて、座るように言った。

あの曲が出来上がるまで、作曲や作詞部分はもちろん、ふたりはいろんな話をしていた。と話すたび、アレンは思いもつかなかったリリックや音が、たくさん浮かんできた。たぶん、がどんな人間だったか知れたからだろう。真夜中にがばっと起きて思いついたフレーズを書き留めて、翌朝の講義中にうたたねしているのを、に苦笑いで起こされたこともあった。

当初の構想から、曲はどんどんよくなっていって、曲に魂が宿るとはこのことかとアレンは実感した。これをが実際に歌ったらどんな風になるのだろうと、想像するだけで心が弾んだ。時々熱が入りすぎるアレンを、はやや気圧された様子で見ていることもあったけど、曲を聞けば「すごくいい」と言ってくれる姿は純粋そのもので、アレンはそれが好きだった。

誰かの音楽に宿る魂を見るのは、胸が熱くなる。それに自分が関わっているのならなおさら。に曲を作りたいと思ったのは、の声に潜む可能性を、を、たくさんの人に見てもらいたかったからで、自分が作曲したり作詞に関わったりしたということが薄れてしまっても、アレンは別に悲観しなかった。そもそもアレンには、BAEのSUZAKUとして、自身を表現する居場所がある。

そんなことをいつものごとく暑苦しくまくしたてたあと、今度はアレンが、「わり、またやっちまった……」と頬をかいて謝った。すると、ずっと申し訳なさそうにしていたがようやく微笑んでくれたので、アレンはほっとした。

「朱雀野みたい」

アレンのマシンガントークが途切れ、少しの間空白があって、横を向いて空を見上げたはそう言った。「ほら、空の感じが」を見つめるばかりだったアレンが空を見上げると、燃え盛るような夕暮れが広がっている。長々と話していて、いつの間にか黄昏時にさしかかっていたらしかった。

アレンがふとその上を見ると、淡い色の夜空が広がっている。アレンはつい、「俺も……」と呟く。

「俺“も”?」
「あっ、いやぁ……。……俺も、あの空がみたいだって」
「俺ってああいう色なんだ?」

が不思議そうな顔をしている。その視線の高さからして、どうやら夕暮れのほうを自分だと勘違いしているらしい。アレンが慌てて弁解した。

「えっと、あっちのほうが!上のほうな!?」
「へー。暗いね」
「え!?いやっ、ちがっ」
「あはは、冗談だって」
「……はあー。冗談キツいって」

言いながらも、アレンは笑っていた。

頬杖をついて空を見つめるの横顔を、アレンは見つめる。そのまま、次の曲はどんなのにしようか、と漠然とした未来をふたりで語る。

大学に入ってからというもの、アレンはうまく友達を作れずここまで来てしまった。けれど今は、がいる。しかも、ふたりを繋いだのは音楽だ。アレンが一番大切な、音楽。何十億人といる人間の中で、さまざまな人々が溢れかえる大学の中で、一生のうちのたった一瞬聞いただけの美しい声に、再び巡り合えた。そしてその声の主とともに、ひとつの曲を作り上げた。それは大げさでもなんでもなく、運命な気がした。

「俺、消えちゃった」
どき、とアレンの心臓が音を立てて跳ねた。見れば太陽が完全に沈んで、辺りは薄暗い。
アレンの顔を見ず、が尋ねた。

「朱雀野は、俺の前から消えない?」

よくわからない問いかけだった。もしがアレンのことをゴーストライター扱いしているのなら、その質問の意味はわからんでもない。ひとりで曲は作れないからお前がいないと困る、ということだ。
ただアレンは、がそんな人間ではないことを知っていた。もしが、そんな器用な嘘をつける人間だったとしても、自分は気づいていないふりをするかもしれない。それだけの価値がの声にはあると、アレンは確信していた。

ただ、質問の意図がわからない以上、どう答えたらいいのかわからなかった。
消えないと、ひと言言えば済む話だ。けれどそのひと言は、軽々しく、無責任な言葉に聞こえてしまう気もする。もっと力強く、の心にまっすぐ届くような、そんな答えをアレンは探していた。

戸惑っているアレンを気遣ったのか、が、「朱雀野はさ、どうして音楽やろうって思ったの?」と話を変える。

アレンがと一緒に作曲をしていた最初の頃、雑談の流れで、同じ質問をされたことがあった。
その時のアレンは、自分の過去を話すのは勇気がいることだったし、ほぼ初対面のに話すことでもないと思ったし、何より話すと気持ちが滅入るのもあって、自分を証明したいから、という、嘘でもないが本質でもないような端的な返答をした。恐らくも、言葉を濁したのに気づいていたんだろう。

アレンは迷った。あの時と違って、には話してみたい、という気持ちがあったから。アレンの曲を大切にするが、アレン自身を大切にしてくれないなんて思えない。

「ジタバタしてんだ、ずっと」

それからアレンは訥々と、胸中を吐露した。両親との不和は、トラウマになるほどもあってか、やはりあまりうまくは喋れなかった。
けれどは、夜空に星が昇り始めても、キャンパス内の夜間照明がついても、アレンの言葉に耳を傾けていた。

「ごめん。俺の話ばっかして……」
「なんで?俺、アレンの話が聞けてほっとした」
「でも」

は自分のことを語らない。いつも自分が話してばかりで、そのアンバランスさが、アレンは不安だった。聞きたいのは逆にアレンのほうなのだ、「は、俺の前から消えないよな?」と。

アレンが作ってが歌った曲が、バズっていることは知っている。の声に見合った曲を作れる誰かが、遅かれ早かれを見つけるだろう。誰も原石を見つけられなかっただけ、その第一発見者が自分だっただけ。アレン自身、表現者でもあるし、またひとりの人間でもある。が輝ける場所にいてほしいと思うこと、友達として永遠にそばにいてほしいと思うこと。ぶつかり合う心では、「消えないよな?」なんて、安易に聞くことはできない。

「じゃあ、俺の話してもいい?」と
「も、もちろん!聞くに決まってんだろ!」
「ありがと、でも時間大丈夫?」

アレンがふとスマホを見ると、夏準から、『連絡がないなら、夕飯はいらないんですね』という、若干の圧をまとった通知が来ている。内心引きながら、アレンはスマホの電源を切って画面を裏向けた。

「ああ。大丈夫だ」
「そう?……うーん、どっから話したらいいかな」

目を伏せたに、アレンはどきりとした。の声によく似合う、わずかな憂いを帯びた顔。今まで見たことのない表情に、アレンの心臓はばくばくと音を立てる。の話の内容次第では、いい意味でも悪い意味でも、鼓動が早まりそうな気がする。

「俺が音楽……ってか、動画やるって決めたの。君は声がいいから、歌手になるといいよって、言ってくれた人がいたからなんだ」


□□□


動画を配信していても、はずっと、自分の声に自信がなかった。

声変わりも終わった、高校1年生のときだった。教育実習生としてやってきて、声がいいからと褒めてくれたあの人は、今はもう、どこに住んでいるのか、教師をやっているのかさえ知らない。実習期間が終わっても繋がっていたかったのだけれど、別れ際にふざけて連絡先を聞いた同級生を、やんわり窘めて断っていたのを覚えている。きっとその人は、の人生に現れた特別な存在で、だからこそ、その人からかけられた言葉も特別だったのだと思う。

でも俺の声じゃ、あんたを引き留められなかっただろ。繋がりが消えてしまったことが悔しくて、その肝心の声が枯れるまで泣いたのを、は覚えている。

少ししてから、動画配信を始めた。くよくよ落ち込んでるばかりじゃ意味がないと思ったからだ。
ずっと歌い続けていた、誰かに見つけてもらいたいのも本当だった。でもその誰かは、ずっとあの人がよかった。

そんな話を、は青臭い笑い話としてアレンに披露したが、実際は傷心の話でもあった。

けれど、現実は厳しい。の声ははなから、誰かに見つけてもらえるほど広まることはなかった。
あの言葉だけがの原動力だったが、手ごたえはなく、自分の声なんて言うほど価値がないんだと諦め始めていた。かの人に憧れていた気持ちも、褒められた言葉も、いつか見つけてくれると思っていた淡い期待も。何もかも意味がなかったんだと、言うなれば嘘だったんだと、そう思いかけていた。

はずっと、自分の声に自信がなかった。──朱雀野アレンという人間に、出会うまでは。

どうして朱雀野は、こんなにドンピシャな曲を作れるんだろう?

は不思議だった。アレンが作ってくれた2曲目は、1曲目とは違って、切なく焦がれる気持ちを歌った曲だった。もともとは、明るくポップな曲よりも、そういう曲調のほうが好きだったけれど、そういう既存曲をカバーしても、あまりしっくりきた試しがない。

それなのに、アレンの作ったこの曲は、そんなの過去を、全部見てきたかのようだった。歌っていると、自然とあの頃の気持ちが蘇る。無駄だったはずの過去が、無意味だと思っていた出会いが、に力を与えてくれる。

曲風のせいか、1曲目の時と違い、アレンとの作曲会議は終始落ち着いたテンションだった。
2週間前、深夜2時くらいにアレンから曲が送られてきて、そのあとこんなメッセージが続いた。

『この間の、なんで音楽やろうと思ったかって質問』
『俺はここにいるって、これが俺だって、音楽で叫んでる』

俺はここにいる。これが俺だ。
その文面が、の胸に焼き付く。2分の間を置いて、新しいメッセージが浮かび上がる。

『俺は消えない』

実は今回で、アレンに曲を作ってもらうのはやめる約束になっていた。というのも、アレンにはBAEとしての活動もあるわけだし、何度も訂正を発信しているとはいえ、アレンをゴーストライターのような扱いにしてしまっていることに、が引け目を感じていたからだ。アレンも、特に反対はしなかった。

アレンからもらった最後の曲を、は何度も練習した。歌うたび、曲に対する思いが、アレンに対する感情が、の中で大きく膨らんでいった。

「どうも、こんばんは」

21時。レンタルスタジオ内に、の声が響く。

生配信の視聴者数は、弾き語りをしていたあの頃の倍以上に増えている。は、以前1クラスぶんくらいだとか思って腐っていた自分を、恥ずかしく思った。動画を投稿し始めた頃は、1人増えただけで嬉しくて、3人増えたときなんか、自分は天才だとか調子に乗るくらい喜んでいたのに、いつの間にか数字にとらわれすぎていた。
1人1人、それぞれの人生があって、でもそのうちの大切な数分を、自分のために使ってくれている。
は、アレンのことを思い出していた。何時間も何日も、に合う曲をと考えてくれていた姿を。そういう友達が、この先の人生でどれだけ出会えることか。でもこの先、アレンひとりだっていい。アレンとの関係が死ぬまで続いたら、それほど幸せなことはないと思うから。

「まず最初に、皆さんに謝りたいことがあります。これから歌う曲は、俺が作った曲じゃないです」

バズったのは結果論。たまたま運がよくて、どうにも素質はちょっとくらいあったみたいで、やめようやめようと思いながら結局やめずに続ける程度の、半端な努力をしていて──アレンと出会って。

「それから、前の曲で期待してくれてる人たちにも。すみません。あれは俺が作ったわけじゃなくて、俺の大事な親友と、一緒に作った曲です。そしてそういうのは、今回で最後です」

には、あの言葉が、もう呪いには聞こえなかった。例えあれが適当にかけられた、なんでもない言葉だったとしても、はがむしゃらに信じることにした。アレンがいてくれたから、そう思えた。


□□□


『親友』『ツイッターで言ってましたね!』『しらんかった』『早く歌って〜』勢いよくコメントが流れていく。タブレットを持つアレンの両手は震えていた。

──君は声がいいから、歌手になるといいよって、言ってくれた人がいたからなんだ。
そう聞いたとき、アレンの心は、なぜだか凍り付いていくようだった。がありし日の憧憬を語るたび、テーブルの下で拳を握りしめていた。原石を最初に見つけたのは、原石を原石たらしめたのは、自分ではなかった。

迫りくる夜に抗うことはできない。は己の過去を、子守歌のように優しく紡いだ。聞きながら、運命だと思っていた大仰な錯覚は、簡単にかき消すこともできず曇っていった。あの日、帰り道を一人歩きながら、アレンは、この夜がいつまでも明けない気がして恐かった。

「あ、仲が悪くなったとかじゃないです、本当。ただ親友は……アルファベット大文字で、SUZAKU〜って名前なんですけど、BAEってチームでラップをやってて。BAEも大文字でビーエーイーですね。そっちの活動に専念してほしいなと思ったので。だから、もし俺の曲がいいと思ったら、BAEの、SUZAKUの曲を聞いてください。自分を表現しながら誰かを照らしてて、めっちゃくちゃかっこいい曲ばっかなんで」

──次の曲はさ、動画に朱雀野の名前のっけていい?それか動画の最初で紹介させて。
新曲の打合せをしているとき、にそう聞かれて、アレンはいいと答えたけれど、まさかこんな、生配信で紹介されるとは思ってもみなくて。

面と向かって言われたことのない感想の数々。もう運命だとか、そんな甘い考えを起こさせてほしくないのに、は無邪気に言葉を紡いでいる。そしてそれが、決して誇張や社交辞令なんかじゃないと知っているから、余計につらい。

「SUZAKU……見てっかな?俺のために、曲を作ってくれてありがと。俺の声好きって言ってくれて、ありがとう」

その言葉を最後に、アレンの作った曲のイントロが流れる。どんなジャンルの音楽も好むアレンだが、普段なら、いいとは思っても作るまでには至らないタイプの曲だ。

が、大きく息を吸い込んだ。

(──なんで)
出会ってしまった運命、そのせいで感じた心の痛み、叶わない夢──けれど、それでもいいと思える気持ちは、願いにも似ている。

の心の揺らぎを、そのままに映した詩でもあり、あの夜、アレンがに感じた気持ちでもある。
アレンの仮歌よりも巧みに、深く、の声は切なさを奏でる。声の波に、アレンの心が震える。魂が揺さぶられる。きっと、という人間を知らなければ、こんなに胸が痛まずに済んだ。叶うなら、を知らなかった頃にまで戻りたいとさえ思うほど苦しい。

が親友だと言ってくれたのは嘘じゃない。実際親友でいてくれるだろうことも、わかっている。けれど、アレンがのためだけに作った、この曲に秘められた本当の気持ちを、は知ることがない。アレンの頬を、涙が一筋伝う。

最後の歌は、壊れそうなほど美しかった。