それは、蝉さえも鳴き疲れてしまう酷暑の日のことだった。

数分前まで院生から今後についての相談を受けていた西門は、うだるような暑さと、ぶつけられた悩みの鬱屈さに、人知れず溜息をついた。
きっとあの生徒は、苦労して入った院をやめてしまうだろう。残念なことだ。大学院という場所は、病みやすい場所でもある。学部生の4年間をぎゅっと濃縮したようなスケジュールと、小人数かつ閉塞的な空間は、あの手この手でフレッシュな院生たちを圧迫し、煮詰まらせた。時間的にも、精神的にも。

院生としての進退どうこうは、はっきり言ってしまうと、西門にはあまり理解できない心境だった。元来からの研究者気質に、自らがしたいこと、すべきこと。それらが最初のうちから固まっていて、その上現実は、当時の西門を学問の崖に追い詰めていた。辞めていく院生は大概、研究から己の道を見つけられないので辞めていくが、あの頃西門は、現実の世界に己の居場所を見つけられなかった。つまり、真逆の環境にあった。学問は一筋の透明な細い細い蜘蛛の糸で、しがみついているうちに勝手に強く鋭く磨き上げられた。過酷な環境下にあったはずなのに、まるで夢の中に生きているようだった。できるならば覚めてほしい、悪夢の中に。

気休め程度の木陰に入り、西門はふと顔を上げた。前方に、生徒らしき青年がひとり見えた。西門は眉をひそめた。彼の足取りは、見るからにふらふらしている。立ち止まり、何かをこらえるように俯いてまた歩き出すものの、その歩みはおぼつかない。彼の背負った黒いリュックが、まるで石でできた赤ん坊のようにへばりついて見えた。

最初は見守っていたが、数メートルもしないうちに足を止めるので、西門はさすがに不安になってきた。この日差しだから熱中症にでもなっているかもしれない。歩いているし、休んで治るものならいいのだが、もしそうでなかったら。以前西門は、大学内に救急車が入ってくるのを見たことがある。あとで聞いたところによると、脳梗塞になった誰かがいたらしい──この頃西門は、他人の体調不良に、少し敏感だった。見ていると思い出すのだ、自分の……。

彼がよろけて、西門ははっと我に返った。慌てて駆け寄る足が、想像以上に暑さで堪えていた。

「失礼、大丈夫かい?」

西門の声はいつもの温和さよりも、強張った性急さと、冷静さを含んでいた。「保健センターに寄ろうか。それとも、救急車を呼んだほうがいいかな」彼は驚いたように、いえ……と答えて、「ひねっただけです、足を」と付け足した。西門は内心、ほっと胸を撫でおろした。

「そうか。ひとりで家まで帰れそうかい」

彼の額には大粒の汗が滲んでいて、それが急にぷんと香ったような気がした。彼はよれて色褪せた、生成りのTシャツを着ていて、汗で肌がわずかに透けて見えた。伸びた襟元と袖からは、すかすかして骨ばった、頼りない胸元と二の腕が覗いている。履いているジーンズも、ダメージジーンズというより、履き古したという表現がしっくりくる褪せ具合だった。
「バス停までなんで…なんとか……」ぽつぽつと、内気な声が答える。ぼさついた黒髪の頭は丸っこく、前髪は目にかかりぎみ。暑さでどうしても頬は赤いが、顔の中心は浅黒く、顔色は悪い。成人はしていそうだが、あまりよくはない意味で幼く、年齢不詳に見えた。あの四季と並んでも、四季のほうが幾分か大人っぽく見えるかもしれない。

「正門の?なら、よければ私が荷物を持つよ」

この道から正門までは、あと少しだった。彼は遠慮しそうな雰囲気で口ごもっていたが、遠慮するほうが気を遣うとでも言いたげな諦めた顔で、「すみません……」とリュックの紐を肩から外した。完全に背中から下ろすと、細い手首がずしっと沈んだ。西門はリュックを受け取ったが、重量はあるものの、想像していたよりかは軽かった。
彼が片足を引きずりながら歩きだした。さっきよりも早足だったので、西門は慌てて「ゆっくり行こう。躓いたら危ないからね」と声をかけたが、それさえも嫌がるかのように、速度はそれほど落ちなかった。

じりじり、炎天下の下を、ふたりは無言で歩いた。青年のアスファルトを踏みしめる音が、西門の脳を夏の熱でじわじわと締め上げた。
その時、背後で物音がした。瞬間、青年がものすごい勢いで振り返ったので、西門は驚いて息を詰めた。青年の勢いは、くじいているほうの足を気にとめない、切羽詰まったものだった。妙な緊張感に捕まって、西門は恐る恐る、最初は視線だけで、次にゆっくり顎を動かして、背後を見た。

影絵みたいに黒い野良猫が、目を見張ってふたりを見つめていた。横断途中だったのだろう、歩いている途中で氷漬けにされたような格好で停止していた。西門と目が合うと、ぴゅっと逃げて行ってしまったが。
びっくりしたね、と言いかけた西門が、青年のほうを向き、もう一度、妙な緊張感に捕まった。

青年は前髪の奥で、血走った目を猫のいた場所に向けていた。幼く見えた容姿が、急に老け込んで見えた。彼は何もない空間を見つめていた。じっと。何十秒間も。何かあるのかと、西門はもう一度振り返った。何もない。かすかな陽炎が揺れているだけだ。もう一度青年を見る。まだ目を離さない。

どう声をかけたものかと、声より先に意味もなく西門の手が浮いたところで、青年ははっとした様子で我に返った。無意識に息を止めていたらしく、首筋に血が上った。

「すみません、早く行きましょう」

青年が恥じらい気味にうなだれ、半歩先に足を動かした。西門はもう一回、背後を振り返ってみた。やはり何もなかった。
青年が早足でも、片足をかばって歩く速度に、西門はすぐ追いつくことができそうだった。だからしばらく、彼がそうしていたように、彼の背中をじっと見つめた。

心を病んで辞めていく院生というのは、追い詰められて憔悴した顔つきになっていることがほとんどだ。砂漠でオアシスを求めるがごとく狼狽え、もう全て終わりにしたい、という雰囲気でキャンパス内を彷徨っている。
彼はどうだろう。西門の目には、少し違って見えた。辞めていく院生が多少でも動的に活路を探しているようであれば、彼はまるで、時間通りに来ない電車をいつまでもホームで待って、途方に暮れているような感じだった。自分から動き出すのではなく、何かが動き出すのを待っている。そんな印象を受けた。

西門の世話焼きの血が騒ぎ、脳内にいる匋平が嫌そうな顔をした。けれども、この暑さの中、ついさっきまで他人の暗い人生相談に乗っていた西門は、バス停までの短い道のりで、ついに彼から何かを聞き出すことはできなかった。幸いにも彼が乗るバスはすぐに来て、彼をのせ、すぐ去っていった。

西門の手に、湿ったリュックの紐の感触が残っていた。バスの熱い排気ガスがぶわっと吹いて、それを冷たくする。真夏なのに、西門はなんだか背筋がぞっとした。
彼に話しかけると、すごく気力を使いそうな予感がしたのだ。誰彼構わず手を差し伸べていたら、西門だっていずれはパンクする。
いいんだよ、それで。それでも、まだ心残りがある西門に、匋平が呆れた顔をしていた。




西門が彼と再会したのはすぐだった。暑さは少しましになったというか、もう高気温に慣れてしまって、この程度では酷暑とは言い難くなってしまった昼下がりのことだった。

彼はあの日と同じように道の先を歩いていて、まだ軽く足を引きずっているように見えたから、西門は気軽に声をかけようとしたのだ。その日は院生から気の重くなる相談も受けていなかったし、Bar4/7では、リュウがどこからか手動式のかき氷機を手に入れてきて、連日妙な味のかき氷を振る舞い、断り切れない四季がかき氷の食べ過ぎで少し青ざめ、匋平が毎度のごとく雷を落としていた。とにかく、西門の心にはゆとりがあった。

しかし、西門が口を開いた瞬間、彼は道に崩れ落ちた。文字通り、崩れ落ちた。転んだのではない。ちょうど積み木が崩れるように、足から力が抜けていったふうの落ち方で──既視感があった。

君、と叫んだかどうかはわからない。西門はとにかく駆け寄り、彼を抱き上げた。汗が冷たい。体が冷たい。こんなにも、暑いのに。

血の気の引く音がした。お前があの日、声をかけなかったから。あの日そのままにしたから。お前のせいだぞ。そんなふうに、自身を責め立てるつららの声が、青年がまぶたを開けるまでのほんの数秒の間、西門の背中を何度も突き刺した。

青年は虚ろな、ぼーっとした目で上を見ていた。西門ではなく、上をだ。何かを見るのではなくて、眼球がその位置で静止しているだけの。
あ……と青年の喉から声が漏れて、目の焦点が西門に合い始めた。か細い寝息に似た吐息が、西門の顎髭をくすぐった。

「君、大丈夫かい!?」今度はきちんと声になったのがわかった。青年の意識を確認するためにも、言葉を出さないといけなかった。思いがけず自分の声量に驚いて、西門はひと呼吸置いた。「急に倒れたんだよ」
青年はうるさそうに眉をひそめたあと、一旦目をぎゅっとつむって、つばを飲み込んだ。

「すみません。ただの、寝不足です……」

そう言って、もう一度億劫そうに、つばをゆっくり飲み込んだ。たぶん。あと貧血で。そんな言葉が、言い訳として続いた。
西門は、信じていいものか迷ったが、再び目を開けた青年は意識もはっきりしてきているらしかったので、「とにかく、保健センターに行こう。立てそうかい」と彼の上体をもう少し持ち上げた。彼女も、最初は貧血だと言い渡されていた。青年の説明は、西門の気休めにはならなかった。

「はい」彼が熱されたアスファルトに手を置き、体を持ち上げる。西門は体を支えながら、彼の背中からリュックを抜き取った。Tシャツの背中は、リュックの形に汗染みができていた。

「すぐ立たなくていい。ゆっくりでいいから」

彼が小刻みに頷く。血の通ったその様子に、西門の心が凪いでいった。ここ最近ではありえないほど、心臓がばくばくと早鐘を打っていた。彼はしばらく深呼吸していたが、やがて大きく息を吸うと、「行きましょう、もう」と緩慢に立ち上がった。

保健センターまでは、前のバス停より距離があった。真反対の位置にあるのだ。道中、西門は気が気でなかった。まだ足が治っていないのか、彼は一歩踏み出すごとに、かくんかくんと体を沈ませた。いつでも彼の右の二の腕を掴んで止められるように、西門の左手はずっと宙を浮いていた。離れた手のひらに、じわじわと彼の肌のほてりが感じられるまで。
保健センターの建物が見えてきた頃、西門は「この間も、顔色が悪かったね」と話しかけた。「普段、夜は眠れているのかな」一週間後は前期の定期試験期間にあたる。レポート提出なら、もう受付も始まっている。連れている彼はそうは見えないが、徹夜や一夜漬けで無理して試験に臨む生徒も少なからずいるだろう。そもそも彼は何年生なのだろうか。それとも院生か?あの道はよく院生も通る。大学院の建物に通じているのだ。
彼は罰の悪そうな声で、あんまり、と答えた。気難しそうな顔をされると、ますます顔色が悪く見えた。その横顔に、西門は、うっすらと隈の浮いた、四季の顔を思い出していた。

ファントメタルを使ったあと──リュウを除いては──全員、酷い顔になる。特に四季は、今にも死にそうな顔になる。神経が過敏になって、ちょっとしたことにも怯える。物音、人影、気配……そう、あの日の彼のように、何もない物陰をじっと見つめたりして……。

四季とひとつ違うとしたら、彼は、怯えてはいなかった。立ち止まって、見つめて、待っていた──一体、何を?

「西門先生」

突然名前を呼ばれたので、西門は一瞬、詮索しようとする思考を咎められた錯覚に陥った。後ろめたさを隠しながら、「私を、知っているのかい」と落ち着いて尋ねた。彼は、西門の胸元の辺りへ顔を向けている。悪い鼓動を見透かされているのではないかと、西門は内心、ありもしない想像をした。
「学部生の時、取ってました。般教……」寝言っぽい、くぐもった声だった。
西門は人の顔を覚えるのが得意なほうだし、院生という小人数のくくりならきちんと全員把握できている。その上で彼に見覚えがないので、恐らく専門分野が異なるのだろう。

「そうだったんだね。ありがとう」
「西門先生は」

社交辞令も意に介さず、彼はぼそぼそと続けた。西門はただの小声に気圧されながらも、耳を傾けた。

「先生は、幽霊を見たことがありますか」




西門が寡夫であることは、彼に興味や憧れを持つ大学の関係者であれば、意外と知れ渡っている事実だったりする。西門が言いふらしたわけではない。妻が亡くなった直後、妻について聞かれたとき、両手で足りるくらいの数を答えただけだ。人の口に戸は建てられないし、西門は決して指輪を外さなかった。若くして教授に上り詰めた西門が、天上人らしく振る舞えば振る舞うほど、薬指の輝きはよく人の目についた。いつしか誰かの口から口を渡り、もはや西門に直接妻のことを聞いてくる人間は、年に1回あるかないかだった。

彼は自分に、亡き妻のことを遠回しに聞いているのだと、西門はすぐ悟った。なぜなら、彼の伏せられた目は、安堵で下がりかけていた西門の左手の、薬指を盗み見ていたから。視線に気づき、西門の左手は、ピアノの弦が切れたようにぴんと張った。咄嗟に視線から守ろうと、指輪を隠しそうになった。しかし、隠す必要もないかと、拳の形で軽く握るにとどめた。指輪が、西門の心を恐怖から守るように環を描いて光る。

「君は、見たことがあるのかい」

不躾に注視されても、不思議と嫌とは思わなかった。たぶん、世間をよく知らない子どもが、悪気なくいけないことを口走った時と同じだ。目くじらを立てる大人もいるだろうが、西門はその部類ではなかった。青年の今後を思えば、社会人として注意はすべきかもしれないが、まず質問に応えてから。なぜその質問がなされたのか、その質問にどう答えてやるべきなのか──西門が学者として持ち合わせている、物事に向き合う気長が、そのひと言に表れた。

青年がぴたりと足を止めた。急なことだったので、西門の左拳が、彼の肘に軽くあたってしまった。すまない、と反射的に謝った西門の声は、虚空を見つめる青年の耳には届かなかったらしい。蝉の鳴き声が窮屈に、ふたりを取り囲んでいた。

俺は……。呟いて、青年は青ざめた。辺りは開けていて、どの建物も太陽がさんさんと照らしている。試験期間直前、授業中のキャンパス内、しかも蒸し暑い夏空の下を、悠長に歩いている者は誰もいなかった。西門と、青年を除いては。
どこにも、影は存在しなかった。けれど青年の瞳は確かに、何か──誰かを、探していた。




ふたりが屋外で立ち止まり、数秒が経った。額から大粒の汗がたらりと伝って、西門は当初の目的を思い出した。とにもかくにも、弱った彼を涼しいところへ連れて行かねばならない。いつの間にか、保健センターの建物はもう目の前だった。

空調の効いた保健センター内には、職員がふたりいた。室内は学校の保健室と病院の中間のようなつくりになっている。病室というには手狭で物が多く、保健室というには広かった。中年の女性職員は、西門が連れてきた青年を見て、「さん」と名前を呼んだ。柔和な雰囲気の職員だったが、顔にうっすらと「また?」という驚きを広げていた。どうやら青年が──が睡眠不足で貧血というのは、嘘ではなかったらしい。

職員はに椅子へ座るよう促すと、バインダー片手にへ話しかけては、手元に何かを書き込んだ。きっと問診表の類だろう。静まり返った室内で、職員の囁きは拾えるのに、がなんと答えているか、西門にはわからなかった。無作法にも聞き耳を立ててしまうのは、との会話を、意味深なところで強制的に切り上げてしまったからだろう。
会話の途中で、がゆら、と西門に視線をやった。申し訳なさそうに、しかし未練がましい視線がそれて、西門は、彼もまた話の続きがしたいのではないかと推測した。単に、が心配なのもあった。例えば四季がトラップ反応で苦しんでいるとき、大抵リュウか匋平がそばにいるけれど、彼は?

ふたりの会話がひとしきり終わったタイミングを見計らい、西門は、「彼についていてもいいでしょうか」と職員を見て尋ね、次にを見やった。はおっかなびっくり背を縮めていたが、なぜという疑問を顔に浮かべてはいなかった。職員が、衝立の奥にあるベッドを振り返り、を見て微笑んだ。「さんはどう?」足元部分だけ見える数台のベッドは、どれも全部間仕切りのカーテンが開放されていた。
がためらいがちに、しかし確実に頷いた。




職員は、一番奥にあるベッドの、窓下へパイプ椅子を広げてくれた。西門に、ほかの方が来たらすみませんが出てくださいねと言い残し、クリーム色のカーテンでベッドを閉め切った。

西門が荷物かごにリュックを下ろし、椅子に腰を落ち着けても、はベッドの上で体を起こしていた。苦笑した西門が横になるよう勧めると、おずおずと布団にもぐりこんだ。
大学内の他の棟と違い、冷房は弱めに設定されていた。西門の背後からは陽光が差し込んで明るく、カーテンはほんのりとした淡くやさしい影をふたりの上に落としていた。

横たわったは、胸の上で掛け布団を力なく握りしめ、真上を見ていた。外にいた時より、の顔がよく見えた。まばたきはのろく、まぶたは完全に閉じる直前で元に戻って開く。寝不足なのがよくわかった。だが、口元は硬く閉じられていて、緊張が窺えた。
先程から続けるならば、から口を開くのが妥当だった。がなかなか話し出さないので、西門は、勘違いした自分が余計な口を挟んで居残り、彼を困らせているのかと一抹の不安にかられた。

「ごめんなさい」

沈黙の末、が呟いた。何に対して謝ったのかは、よくわからなかった。の声は酷くもろく、西門は、何が、とか、なぜ謝るんだいとか、そういう返しを控えた。不用意な発言はの口を塞いでしまいそうだったから、慎重になった。

の顔が、西門とは反対の方向へ横を向いた。の視線の先を辿ると、カーテンの、何の変哲もない、裾に近い影だけがある。はそれを放心した様子で眺めていた。まただ、と西門は思った。あの日野良猫を、陽炎を、いいや、それ以外の何かを。彼はまたも、まなざしていた。

「俺は、見たかもしれません」

体の熱も冷め、心拍数はだいぶ正常値に戻っていたが、西門はそれでも小さく息を飲んだ。

見た、つまりは──幽霊を。西門はどうしてか、怖くなかった。ゆりかごのような室内には、不気味さも、陰湿さのかけらもない。ここは安全地帯だと肌で感じる。思い返すと、だからこの時のも、ぽつぽつと西門に話し始めたのかもしれない。

「こないだ、実家の祖母が亡くなって。通夜のあと、見たんです、俺」

俺が部屋に寝てて。そしたら誰かが、扉開けて入ってきて。枕元に立ったんです。それで、俺の首を締めたんです。殺してやる、って言いながら……。
不穏な展開とは裏腹に、の声はどんどん角が取れてとろとろしてきた。塩振るの忘れたからかな、とか、女の人で、とか、のんきな蛇足さえ出てきた。こうなる前の、普段のの一面が垣間見えた。

「君は、怖くないんだね」

西門は、声の抑揚を平坦気味にして尋ねた。西門はよく、声がいいと褒められる。バリトンボイスのいい声だと。西門自身はよくわからないが、己の声で講義中に熟睡する生徒が少なくないのは知っている。講義後小耳に挟んだときもあれば、先生がいい声してるからと冗談で責められたこともある。そんな声が、うつらうつらしているを妨げることはなかった。むしろは鼻から息をゆっくり深く吸い込み、吐いて、今にも寝落ちそうだった。ある意味それが、西門の問いかけに対する答えだった。

会いたい……。無防備に呟いて、は、枕と深い眠りに沈んでいった。自らが西門に投げかけた問いの答えを、聞くこともなく。
西門は静かに椅子を立った。を起こさないよう、脳内の思考回路すら停止させて、建物を出た。

遠くの空が曇っていた。体にまとわりつく湿度が増していた。夕立が来るのかもしれない。そう見当をつけると、そこをきっかけに、留めておいた思考の歯車が再び回りだした。

の質問に対する西門の答えは、「自分は、見たことはない」だ。西門は左手の薬指を見つめる。湿気のせいか、白銀はくすんでいるように感じられた。手入れは毎日かかさずしているから、ありえないのだけれど。目のほうが曇っているのかと、眼鏡を外してみた。汗だくだったはずだが、レンズに汚れはなかった。ファントメタルを用いたそれを見下ろし、西門は、のいう幽霊とやらに思いを馳せた。

自分は──もしかすると、単に自分には素質がないだけで、死者の霊魂は今この瞬間もこの世を彷徨っているのかもしれない。そんな発想を捨てきれないのは、ファントメタルや幻影などという、おおよそ人智を越えた代物を、西門自身が扱っているせいだろうか。
それに一説では、ファントメタルを使うと死者を蘇らせることができるらしい──もちろん根も葉もない都市伝説だ。いくらファントメタルが謎の多い金属とはいえ、そこまでの力はない……はずだ。死者のまがい物──それこそ幽霊のような幻影を──作り出すのが関の山だろう。

西門は黙って考えていた。ファントメタルについてではない。死者についてだ。死者──妻のことを。

背中に冷たい気配を感じて、西門はどきりとしながら後ろを振り返った。建物から人が出てきたので、ドアが開いて、中の冷気が漏れて流れてきただけだった。
会いたい……。西門の鼓膜に、の余韻が、ねっとりと絡みついていた。意識して、西門は肌が粟立った。幽霊より、あの響きのほうが空恐ろしかった。

西門は、ちょっとした相談も含めて、匋平とよく話をする。けれど今日ののことは、なんとなく、胸の内にしまっておいた。TCW の誰にも、のことや、ましてや幽霊の話なんかは、しないほうがいい気がした。そう、まるで、自身のトラウマについて、誰かと深く語らうことがないように。

その日は、翌朝まで匋平の手伝いで店に立つつもりだった。Bar4/7へ寄ると、出迎えたリュウが不思議そうな顔をして言った。

「ぼす?どこ行くの?」




Bar4/7で日を跨いだあくる日の晩、疲れが残っていたせいか、西門は久しぶりに夢を見た。西門の眠る部屋に、男が入ってくる夢だ。
夢だからか、視点がおかしかった。西門は自分が眠っている姿を、そして男の影が扉から入ってくる様子を、少し離れたところから見ていた。男の全身の輪郭は、ピンぼけしたようにもやがかっていた。黒い荷物らしきものをしょっているのが、かろうじてわかった。
男が西門の枕元に、どんよりと立ち止まった。西門の頭に突然、あの男はではないかという考えが浮かんだ。そう思った次の瞬間、声がした。西門先生。あの時と同じ声でそう呼んだはずだろうが、まったく別人の声に聞こえた。

静まり返った薄暗い部屋に、ぼそぼそと声がしていた。水中のようにくぐもって聞こえにくい。異様な様子だったが、だからこそ西門は、その声を聞き取ろうとそばへ近づいた。視点が動いた。だが、思ったより歩幅が狭い。まだ聞こえない。一歩動く。まだ聞こえない。そばへ。まだだ。そばへ。西門の視界一面を、の丸く黒い頭が埋め尽くす不自然な距離まで来た。それでも輪郭はぼやけていた。そこで立ち止まると、ぴたっと呟きが止んだ。静寂に、西門の聴覚が研ぎ澄まされた。

殺したな。
誰かがそう言った。たぶん、男の声だった。かもしれないし、知らない誰かかもしれない。

ただ、ああ、これが、この声が──椿だったらよかったのに。

目を覚ました西門が覚えたのは、恐怖ではなく、寂しさと悲しみだった。
その日は椿の残したものが、何もかも、普段より色濃く、存在を放って見えた。目につくそのすべての影が濃くなって、やがて若い女性の姿に変形していくような錯覚に陥った。西門は、何度も目が離せなくなっては、数秒間、動かない物体や影を見つめていた。そして幾度目かに、こう願った。会いたい……。




「やあ。あれから眠れているかい」

定期試験の最終日。3時間目の終わりのチャイムが鳴る前に、は大学院の建物1階にあるコピー機の横で、ベンチに腰掛けて呆けていた。の隣には、すでに刷り終わったらしい資料が山積みになっている。

突然話しかけられたは肩を跳ねさせ、視線を泳がせていた。動作はこの間と比べればいささか敏捷で、あんまり、と答える声にはばつの悪さが滲んでいた。それから、「この間は、すみませんでした」と、依然内気に、しかしはっきりした口調で答えた。は西門の顔をちらっと窺うと、先生は……と遠慮がちに何か言いかけたが、西門が小首を傾げると慌てて口を閉じてしまい、何を言うつもりだったのかはわからなかった。

西門は壁にかけられた時計を見ながら、「今、少し時間はあるかな」と尋ねてみた。は怪訝な顔で、微笑む西門を警戒していた。ややあって、まあ、とあまり気の進まない返事があった。
紙の山を挟んで隣に腰掛けた西門を、はちらちらと気にしていた。貧乏ゆすりをしかけて、さっとベンチを立ち上がると、コピー機の前に立って印刷物を観察しだした。
「あの時眠くて頭が回らなくて」の視線は、紙面の同じ箇所を走っては戻ってを繰り返している。「俺、変なことを言ってましたよね、きっと」乾いた笑いは引きつり、他人に慣れていないふうだった。

「いいや。実に興味深い話をしていたよ」

本心だった。実は、あの夢を見た日から、西門はずっとを探していたのだから。

について、西門は何ひとつ手がかりを持っていなかった。同じ道で二度遭遇したから、建物間を移動する道にいくつかの候補があったとき、毎回そこを経由した。はいなかった。あの黒猫は、一度だけ見た。

ぼす?どこ行くの?──どこだろうね。広いキャンパス内でを探す道のりは、果てしなく続きそうだった。屋外だと暑さも堪えた。だが西門の視神経は、常にを探して動いた。ふとした瞬間、自分はと似た形相になっているかもしれないと思った。諦めなかったのは、が生きた人間で、この大学に在籍しているのも確かだったからだ。

の体調を心配していた。西門は人に頼られたり、相談に乗ったりする手間を厭わない。しいて言えば、先日の院生の悩みなんかは、親身になれても心から共感できるわけではないのが歯痒い。しかしそれは、一種の自他境界となって西門を守ったので、なんら問題はなかった。西門の姿勢は寄り添うに留まり、西門の私生活に影は落とされなかった。
ただし、の場合は違った。曇りガラスを通したような淡く曖昧な影が、西門の心の片隅で、か細く揺れ続けていた。

「幽霊なんて。子どもじゃあるまいし、馬鹿馬鹿しいですよね」紙を揃えながら、が投げやりに言った。ガラス戸の向こうに人が増えてきた。途中退室の時間帯になったのだろう。この話題はもう終わりにしましょう。そんな本音がの声に透けていた。それは、自身がその話題を本当に馬鹿らしいと思っているのではなくて、西門から馬鹿らしいと思われたくないから切り上げようとしている感じだった。でなければ、の目の下にある隈が、まだ色濃く残っていることの説明がつかない。は幽霊を信じている。

「そうかな。君の話を聞き、考えて、私は思ったよ。会いたい……」が大きく目を見開き、素早く西門を振り返った。端がずれていたのか、の手元から紙が1枚抜けて、はらりと床に舞った。ふたりの目が、同時にその様を追った。西門が視線を戻すと、と視線がかち合った。西門は悪戯っぽく微笑んだ。「……とね」
が、怖物じして腰を引いた。

この時には、西門もうすうす自分で勘づいていた。ことに関しては、純粋な優しさとは異なる感情も抱いて接していることを。は全くの赤の他人だったが、心情的にはもう一歩先に進んだところ、仲間のTCW──何より、苦楽を共にしてきた匋平の立ち位置に近いのではないかと、西門はそう勝手に感じていた。
と話がしたかった。なんなら西門は、逆に自分の夢の話を聞いてほしいとさえ思っていた。匋平にあの夢について話すのは、本能で避けていた。この時は、避けていることすら気づいていなかった。

とにかく、とよく話してみたい。“会いたい”。霞みゆく夢の果てに浮かんだ気持ち。のあの寝言に、西門は今なら間違いなく共鳴できる手応えを感じていて、それならばこの胸の名残惜しさも、ならわかってくれる気がして……。

普段の聞く姿勢とは真逆だった。誰かに自分の気持ちを聞いてほしい、できるならわかちあってほしい──そういう切実な感覚を、西門は久しぶりに思い出した。
感覚を手繰っていくと、記憶の底で、トラウマが手を振っていた。昔の西門は、音楽を断ち、匋平を避け、苦しみの中で誰とも繋がっていなかった。正しくは、繋がろうとしなかった──

はまだ西門を警戒していた。薄気味悪そうな顔をして、腰は引けていた。しかし、西門を盗み見る瞳の奥に、西門に対する関心がわずかに芽生え始めているのも窺えた。
西門が手を伸ばして紙を拾う。すぐには返さず、つまんだ状態で、前かがみになって指を組む。紙の下で、右手中指が左薬指の付け根を、愛おしそうに擦った。

「君が会いたかったのは、誰かな」

西門の微笑に、は表情を凍り付かせ、返答に躊躇した。西門の持つ紙をちらちらと忙しなく見ている。無理に聞き出すつもりはなかったので、西門は素直に紙を差し出した。意表を突かれたの喉から、あ、と音が漏れた。軽い衝撃が加わり、その拍子に角が取れたようだった。

が紙の反対側をつまんだ。すぐには引っ張らないで、まるで命綱に手をかけるがごとく、指先に力を込めた。紙がかすかにしなった。「祖母です……亡くなった祖母」固唾を飲み込み、喉が上下する。
その答えはわかりきっていた。西門は無言で、深く頷いた。会いたい……。の余韻と西門の余韻の波紋が、広がって干渉した。

は弱々しく紙を引っ張ると、胸元の辺りに寄せた。俯き、ぽつぽつと続ける。「祖母は……年のせいか、あまり家族のことがわからなくなっていて……」

過去の苦みが、西門の舌の上へ広がった。死という枯れ木の下にある複雑に入り組んだ根が、禍根が。死という事象を表面的になぞっただけでは理解されない、西門だけの苦しみが──
記憶の闇に黒く染まる西門の心は、一層、に強く惹かれた。真夏の眩しい光を避け、生命力に溢れた鳴き声に耳をふさぎ、似通った陰の静寂に同化しようと忍び寄った。

だが──「俺はずっと、祖母に会ってませんでした」──そのひと言が、西門とを違えた。急に岐路が現れ、は西門とは別の道を歩いていく。取り残された西門は、茫然とその背中を見送る。自らが招いた過去の闇に、全身を絡め取られ、引っ張られながら。

「俺を覚えてない祖母が、知らない人みたいで……」西門の記憶にも、ひっかかる箇所はあった。変わり果てていく、愛する者の姿──ふたりの道は再び近づいたかに思われたが、決して合流はしなかった。愛する者へ寄り添い続けることを選んだ西門には、離れることを選んだが、まったく別の場所へ向かうようだったからだ。例え、肩が触れ合う距離にいたとしても。

西門のに対する関心は、急激に冷めていった。は──他人というものは結局、どこまでいっても他人でしかない。そんな当然の事実を思い出すと、西門は最近忘れがちだった孤独感に苛まれた。西門は忍び足を音もなく引き、のまとう闇から距離を置いた。会いたいと言ったの気持ちが、またよくわからなくなってしまった。ただ、そのよくわからない部分が、具体的にどうわからないのかは説明できる。理解もできる。それがより、西門の関心に冷や水を浴びせる。

「それは……つらい思いをしたね」

それはも同じだったのだろうか。無難な返しを受けたは、まだ何か言いたそうだったのに、そのまま押し黙ってしまった。ふたりの間に、気まずい沈黙が漂った。

チャイムが鳴り、西門は我に返った。しまったと引き留めようとした時にはもう遅く、はベンチに積まれた資料とリュックを素早く持ち上げると、すみません、と逃げるように去っていった。その姿が見えなくなっても、チャイムは鳴っている途中だった。

失敗の空気が停留しているのがいたたまれず、西門もベンチを立った。再び行き場のない思いを抱え、建物を出る。ぼす?どこ行くの?リュウの問いかけが、あざ笑いながら耳の奥でこだまする。外は蒸し暑く、数分と経たないうちに汗がたらりとこめかみを伝う。何をしているんだ、私は──西門は額を押さえ、若い学生のような青い溜息をついた。
他人に期待しないなどと言うつもりは毛頭ない。しかしそれも行き過ぎればエゴイスティックになると、重々わかっている年だと思っていた。……それがどうだ?

自分が嫌になる。ひとりきりで黙々と歩いていると、失言で会話を閉じてしまった後悔と、自問自答が押し寄せてきた──例えば、匋平ではなくと話したかったのは、匋平に対する後ろめたさがあったからなのだろうか、とか。
汗にまみれた指先を見下ろす。匋平に向かって妻に会いたいのだなどと、それこそ寝言を、どうして言えるだろう?この手が、匋平の選択肢を奪ってしまったのに。

先の見えない、終着点のわからない、険しくなっていくだけの茨道を走り続けなければならない恐怖。匋平は、や西門が感じた、そんな苦渋すら味わえずに──味わわせてもらえずに──椿の死に直面した。酷いことを言おう。自分の与り知らぬところでこの世を去られるよりも、今際の妻の願いに応え、自らの手で彼女を苦しみから解放できたことは、西門にとって一筋の光だった。あの死にまつわる苦しみは、同時に、西門にとってある種の幸せなのだ。その救いに対する贖いが、西門の心身を絶えず鞭うち、永遠に解放しないとしても。

との会話で再認識させられた。年を重ねど自分は変わらない。己のどうしようもないエゴイズムに、喉に苦いものがせり上がってきて、西門は口を手で覆って立ち止まった。のそばに座っていたのは、と同じ、院生の西門直明だった。妻が、椿が、かろうじて生きていて、ひとかけらの希望を捨てきれず、それに縋ってまだ夢を見ていたあの頃。愛を失って、誰とも繋がろうとしなかったあの頃……。

──と繋がることで、過去の自分を救おうとでも?西門は咳き込みながら自嘲した。今がどうであれ、過去の自分は、そんなものに聞く耳を持たないだろう。どんな言葉も、あの時感じた絶望の慰めにはならないのだ、きっと。過去が未来を作ることはあっても、その逆はありえないのだから。

呼吸を整えていると、沼のように黒々とよどんだの瞳が脳裏に浮かんだ。の話は片鱗だった、誰の目から見ても明らかだった。会いたいと言うまでに達したの思いを、西門は丁寧に紐解かなかった。に自分を重ね、らしくもなく先走り、それが勘違いだったとわかった途端、一番大切な相手への誠実さを欠いた。年甲斐のなさが悪い意味で露呈していた。

の開きかけていた心を閉じるような真似をしたことは、匋平に対する過去の仕打ちと同等の大罪に思えた。自分より、のほうがどれだけ心細いことか。幽霊を見たことがありますか。子どもじみた質問だ。それでも、年端も行かぬ青年にとって、切迫した、藁にもすがる思いが込められていたんだろう。

西門は息を吐き出し、ハンカチを取り出して汗を拭いた。について考えているうち、亡き妻に会いたいという漠然とした考えは、不思議と薄れていった。代わりに、に会いたいという気持ちが──いや、そんなぼんやりした希望ではなくて、会わなければという義務感が頭をもたげた。だって、は生きている。永遠の苦しみの中に閉ざされて、今もこの青空の下を、ひっそりと、孤独と苦しみに苛まれながら……。





「西門。お前、もう帰れ」

匋平が大きな溜息をついたかと思うと、苛ついた口調でそう言った。この間のとのことがあって、西門は何か勘づかれたのかと内心ひやりとしたが、匋平は「仕事が忙しいのはわかっけどよ、そんな隈こさえてここに立たれたら、俺が鬼みてえじゃねえか」と洗い物をしながらぶつくさ文句を言った。

「さっさと帰って寝てろってんだ」

今日は都内で花火大会があった。リュウが四季を引っ張り、電車に乗って遠くまで見物に行っている。店内には客がいなかった。15分ほど前、浴衣姿の女性2人組が退店してからは、誰も来ていない。この時間帯に誰もいないということは、例年通りなら、この後の客入りはたかが知れている。花火大会の終わる時間を考えると、リュウと四季が戻ってきても店を手伝うことはできないが、西門が抜けても、匋平ひとりで切り盛りできるだろう。もしかすると、今夜は朝まで誰も来ないかもしれない。

店を出る前に、西門は手洗いに寄って鏡を見てみた。確かに薄い隈が浮かんでいたが、心配されるほどではない。初対面の人間なら、彫りの深さを見て、もともとそういう顔立ちなのだと思い込むくらいだ。ただ、匋平はこういう点について、本当に目敏いのだ。椿のことも勿論だが、それを差し引いても、XXXXの、西門直明の相棒であるというだけの精神的な繋がりが、西門の調子を敏感に悟らせる。たぶん、に未だ会えていない心残りが雰囲気に滲んで、匋平に気づかれたのだろう。

──だが、どうやってに会う?西門は鏡の中の自分に問いかけた。大学は3日前、夏季休暇に入った。その間、キャンパス内でを探したが、結局見つからなかった。院生だから学部生よりかは大学に来ているかもしれないが、どのタイミングでどこに来ているかまではさすがにわからない。酷暑の中を見当もつけずに歩き回るなんて時間の無駄だし、それこそ熱中症になる。

「匋平。それじゃ、後はよろしく」

「おー」匋平はいつの間にか煙草を吸い出して、キープされたボトルの向きを几帳面に揃えている。心配した割には、西門に一瞥もくれない。西門は苦笑して念押しした。「頼んだよ」

扉に手をかける寸前で、西門は匋平を振り返った。

「匋平」
「んだよ。まだ何か用か?」

匋平は煙草を吸いつつ、整えられた棚をどこか満足げな様子で眺めている。西門は、店の端、暗い辺りに身を潜めていた。暗がりで、明るい色の瞳はナイフのように閃いた。「私を探そうとは、思わなかったのかい」

「はぁ?」西門が脈絡も前置きもなく聞いたので、匋平が素っ頓狂な声を出して振り返った。匋平は怪訝な顔で片眉を吊り上げ、扉の前に佇む西門をじろじろ睨んでいる。「なんの話だよ、一体」
薄暗い空気を取り払い、西門は、はは、と声を立てて笑った。

「いや、すまない……独り言だ。気にしないでくれ」

もう数年前のことを、今更掘り返して何になる。でも、気になったのだ。行方知れずの男を見限らず、この店で辛抱強く待ち続けた2年間を。数日ではない。2年だ。あの頃光陰矢の如しだった年月も、今の西門には、とてつもなく永い時間に思われた。
と違って、ともに過ごしていた匋平なら、西門のいるあてに目星はつけられただろう。けれども匋平は、西門の前に現れなかった。季節が二度過ぎ去り、長い時を経て、西門の心が良くも悪くも波立たなくなってしまった時、ようやく──

「音楽があんだろ」

西門の思考の延長線上で、匋平がカチッとピースをはめた。匋平が顎を動かし指し示した──ピアノを。ピアノの前に置かれた椅子には、誰も座っていない。店内BGMのピアノの音は、軽やかだがどこかチープだった。ぽっかり空いた空間を見つめる匋平の瞳は、純粋に懐かしむ色を滲ませている。匋平と西門、そしてもうひとりを繋ぐ見えない糸は、今なお、しっかりと伸びていた。
ああ、そうだね。西門はそう噛みしめると、ドアベルを静かに鳴らし、店を後にした。

なぜあの相棒は、こんなにも不器用な自分のことを、簡単にわかってしまうのだろうか。欲しい音を望んだとおりくれるように、感性が鋭いと、自然とそうなるものなのか……。歩きながら、西門は苦笑いをこぼした。
音の引力とでも言うべきか。例えあの夜、Bar4/7が残っていたとしても、あのピアノの旋律が、匋平の奏でる音色がなかったら、西門は全てが──人生が終わったと決めつけただろう。

夏の夜に耳を澄ませてみる。風もなく、街は静かだった。蒸し蒸ししていて、グラスを鳴らしても音が曇りそうだった。アスファルトを踏みしめる足音が唯一、それらしい音だろうか。ふいに空を衝く音がして、西門は顔を上げた。少し間隔を空けて、二度三度、くぐもった破裂音がした。遠くの空が白っぽく濁っている。西門は暗闇の腕時計へ目を凝らすと、好奇心からちょっとだけ、遠回りをしてみることにした。

どの辺りなら見えるだろう。いや、すべて打ちあがるまでに間に合うだろうか?頭の中に、子どもっぽい期待の画を思い描いた。歩く速度が少し上がった。音が近くなった。音が手招く。もっと速度が上がる。夜空に咲く大輪の花。鮮やかに咲いて、束の間にぱっと潔く散る花。

──に会うと決心した日の夜、西門は寝床で、改めて想像しようとしてみた。妻が、夢枕に立つさまを。恨みでも未練でも、はたまた、勇気づける言葉だっていい。あの夢のように何事かを口走り、枕元に立つさまを。

しかし、それは不可能だった。西門は、椿のことをよくわかりすぎていた。きっと椿も、西門のことをよく理解していたに違いない。
彼女は──悠月椿は──そんな人間ではない。生きていれば、西門の背中を押すひと言でもかけただろうが、死んでもなお、現世に留まり続ける人間ではない。儚いが凛として、そしてそのまま、西門の元を去った。

妻に会いたいという執着が薄れていったのは、への思いが上回ったからではなく、諦めたのでも忘れたのでもなく、ひとえに、現実味に欠ける願望だったから。単純な話だ。
ああ、そうだな。西門は軽く笑って腑に落ちる。もし幻影が、死んだ人間さえ虚構として映し出せるのなら、同じ名を有する花なんかじゃなく、彼女自身が表れればいい。でも、西門のよく知る彼女は、それを許さない。そんな人間じゃないと西門に突き付けるがごとく、大輪の花は美しく咲くのだ。

匋平の言葉。在りしの日の、妻の美しい生き様。それらが西門の視界をクリアにしていく。指輪が、西門の知らないところで何度も何度もきらめいた。
西門がしばらく夢中になって歩いていると、せせらぎとともに、川沿いの道に合流した。懐かしい場所だ。あまり近寄りたくない場所でもあった。振り返ると、相変わらず大きな病院があった。喉と心臓が、きゅっと締め上げられる心地がした。だが、西門はそれをじっと見据えた。

川の上は空を遮るものがほとんどなく、開けて見えた。西門は橋を渡り、中間地点で止まってみる。川の流れに従って、周囲の重たい湿気が蠢いている気配がある。もったりした藻の匂い。風があった。雑草が揺れていた。蚊が西門の周りを飛び回った。すると、自然に音は生まれた。西門が欄干に左手を置くと、指輪が当たって軽い音を立てた。

どん、と鈍い音が聞こえる。橋の上に西門以外誰もいないのが、最初から答えを物語っていたのに、考えに耽っていた西門はそれに気づくのに遅れた。空は明るくなったが、花火自体は高層ビルに阻まれて、まったく、端っこすら見えなかった。西門のいる場所が照らされたかどうかも怪しかった。

西門先生。

──けれどその声は、西門の耳に届いた。なぜだか西門は、それほど驚きはしなかった。こういう偶然が案外あることを、嫌というくらい理解させられてきた半生だったから。
音楽があんだろ。匋平が西門の頭の中で言い放つ。

「やあ。こんばんは。奇遇だね」

──が、本物の幽霊を見たような顔をして、橋の上で立ちすくんでいた。




半歩後ろによろけたが、欄干を支えにするように片手でしがみついた。

は、どうやらこの付近に住んでいるらしい。手ぶらで、よれよれのステテコのポケットが、財布か何かで膨らんで下に引っ張られている。胸に、有名な古い映画のワンシーンが印刷されたTシャツを着ていた。プリント部分は劣化が激しく、ひび割れている。遠出には到底向かない、安物の黒いサンダルを履いていた。

そんな姿が夜目にもはっきり見えるほど、ふたりの距離は近かった。風に乗り、の汗の匂いが西門の鼻をつく。は相変わらず垢抜けない風貌だったが、湿気の停滞する橋の上に立っていると、妙にこざっぱりして見えた。

歩道は決して狭くはなく、大人ふたりが横に並んでも問題なく通れる。西門の広い体は川のほうへ横向きになっていて、道は一層広かった。しかしは、まるで道を塞がれたかのように狼狽えていた。顔だけで振り返った西門の瞳が、まっすぐにを射抜いていた。

は、こんばんはと返しても、はたまた無言でも、さっさと通り過ぎてもよかった。その余地を、西門は残したつもりだった。もう一度会いたいと願ってはいたが、その意志を押し通せばの気持ちを軽んじるかもしれない。そうなったらは一生、西門と交わるのを避けるだろう。雄弁は銀、沈黙は金。本来の西門直明という男は、そのどちらの価値も発揮する。物言わず、瞳だけで雄弁に、を引き留めた。

ぱたぱたと、雨だれのような音がした。小さな花火がいくつも弾けているのだろう。それが見えないのも、この場では却ってありがたかった。見える場所で会っても、空の迫力に負けて、会話の本質を逃してしまうだろうから。
幽霊に会いたいと切願していたは、この偶然には若干、怖気づいているらしかった。目の下には隈が残っていて、そういう表情をされると、とても残酷な目に遭っているようだ。

「まだ、眠れない?」

西門が苦笑すると、は、はあ、と気のない返事をして、会話から逃れるように、おずおずと体を川のほうに向けた。欄干に両手をつき、暗く何も見えない川の流れを、じっと覗き込んでいる。背中に沈黙の重みがのしかかっていくように、の上体は少しずつ前のめりになった。しまいには欄干に腰をぴったりとくっつけて、半分身を乗り出した体勢になった。まばたきの回数が多く、単調な水流が、蓄積した眠気を誘っているのかもしれない。俯いた暗い雰囲気と、くたびれた服装で、は今にも川に身投げしそうだった。企図はなかったが、偶然そこに吸い込まれて──そんなふうに。
「もう少ししたら、お盆だね」そんなの肩をやんわりと掴むような、優しい声だった。我に返ったが、慌ててわずかに腰を離した。そして西門に視線をやった。

西門はもう、を見つめてはいなかった。と同じように、橋の下を眺めていた。ひと房垂れた前髪と、金色の太い眼鏡のつるが瞳を覆い隠し、虎視眈々とした表情はなりを潜めていた。

「君は、幽霊を見たことがあるかと、私に聞いたね」生ぬるい風が吹き、西門の前髪が揺れた。瞳は隠されたままだった。低い声は川の流れに似て滔々と、しかし静かだった。の視線が首筋から頬にかけて這い上がってくるのを、西門は感じていた。

「私は……ないんだ」

君が、羨ましい。西門は心の中でだけ付け足した。初めは似ていると思い込んだからこそ、ぼやけていた輪郭が鮮明になると、自分との違いが明確にわかってしまった。

自暴自棄になって酒に溺れていた頃、西門は妻の幽霊を見たり、あるいはそれが現れることを望んだりはしなかった。やりきれなくても、悔しくても、──底なしの絶望と悲しみに突き落とされても。西門が思い出すのは、死んだ先にいるかもしれない妻ではなくて、死ぬまでに見た妻の姿や、表情だけだった。妻の崇高な精神と、そんな彼女が西門を導き迎えた結末。あの時、結末のその先を考えることは、もはや妻を侮辱する行為といっても過言ではなかった。

何も、祖母の幽霊を探すが、彼の祖母を侮辱しているなどとは言わない。西門はの祖母のことも、のこともよく知らないのだ。よく知りもしないくせに、の行動や感情についていいとか悪いとか判断するなんて、それこそ恥知らずの行為だろう。
何より、で、西門ではない。それが一番大事なことなのだ。

だから今宵、西門は、明かりをともす役に徹する。その光を厭うなら離れてもいい。そばにいたいならいてもいい。かざした明かりで自分の輪郭のみを、惑い彷徨うに、よく見えるようにする。夢と現実のあわいで声を奏でる吟遊詩人。それだけの役割。

「その代わり、幻を見る。美しい椿の咲く幻なんだ。私の心が作る、椿……」淡く夢見心地な余韻に、記憶から発されたかすれたノイズが混じる──殺したな。西門は瞼をそっと閉じ、罰を受けるがごとく沈黙した。

醜くおぞましく、形容しがたいあの男の声は、きっと自分の内側から出たものだろう。西門は確信していた。声帯を震わせて生まれる物質的な音ではなく、あれは西門の魂の叫びであり、怒りなのだ。
西門を苦しめるのは、妻や、彼女の死そのものではない。西門を苦しめる影は、いつだって西門自身なのだ。その影が西門を生かしもするし、死ぬよりも辛い苦痛を味わわせる。

「まぼろし……」が茫然と呟いた。絡まった糸がほどけたようなあどけない響きは、落胆気味にも聞こえた。西門はに微笑み、夜のように囁きかけた。「私には、見えなかったというだけさ。君なら、本当に会えるかもしれないね」

その慰めは、逆にの心をゆるく締め上げたらしかった。遠くでまた、花火の上がった音がした。は泣き出しそうな顔になって、欄干に置いた両手を握りしめた。そして、意を決したように、震える声を絞りだした。「ずっと逃げてたから、俺……」後悔一色を顔に滲ませて、目を硬くつぶった。

「ばあちゃんが、俺のこともわかんなくなってるって、受け入れられなくて……」遥か彼方の空を揺さぶり続ける音に、穏やかな川の流れに、の消え入りそうな声は浚われていく。

状況も心情も、何もかも。過去に西門が通過したものとは違っていた。
だが、それでいいのだ。同じでいる必要はない。真に理解することは叶わないだろうの吐露に、西門は動かないまま寄り添った。

「いつか会わなきゃ顔見せなきゃって……ほんと、思ってたのに……!」声に激情が乗ったかと思うや否や、は欄干の上に突っ伏した。腕の間から、荒い息遣いが聞こえた。ほとばしる感情を押し殺すように、腕を抱く指は真っ白だった。

やがては動かなくなった。生命活動をやめてしまったようだった。会いたい。微動だにせず呟いた。

「会いにこなかっただろって、俺を恨んで、呪ってほしい。俺のこと、覚えてたってことだから」

殺してくれていいよ……。
やるせない呟きが、今まで聞いた中で一番、の感情で溢れていた。あたかも、皮膚が破けて血の滲んだ、生々しい傷のように。聞いている者の胸にさえ、ずきっとした痛みを与えるほどに。

夜の帳を降ろすように、西門の睫毛が伏せった。

「幽霊はいなかった。少なくとも、私の世界には」

が泣いた。声を上げず、くしゃくしゃに泣いていた。夏の夜に、汗と、涙の香りが漂っていた。花火はもう、上がらなかった。