「なあおやっさん。最近、仕入れ先でも変えたか?」
この不景気、商売をやるものの悩みは似たり寄ったりだ。それは匋平とて同じこと。先日Bar4/7に来た依織も、珍しく景気の悪い顔をして、値上げがどうだのなんだのと愚痴っていた。
安くてうまいが持ち味のこの居酒屋は、夜街に店を構えながらも昼から開いていて、昼飲みのできるいい赤提灯だ。梅雨時、今朝から雨で人出は少なく、店内も匋平だけだったものの、この店は気合を入れて開店していた。匋平はこの店のそんな心意気を気に入っていた。せんべろにもうってつけで、都合さえつけば、依織ともよく足を運ぶ。依織との行きつけの店はいくつかあるが、成人する前──西門たちと出会った頃だ──から、この店には安メシ目当てに通っていた。おやっさんとおかみさんが切り盛りする家庭的な感じが、若い頃の匋平には妙に居心地よく、戸をくぐると不思議とほっとした。今ほど心を開くのが器用でなかった当時も、いつも温かく出迎えてくれる場所だった。いわば、青春の店でもある。
「5人目」
「は?」
「今日で5人目だよ、同じこと言ったのは……」
そう深刻そうな顔をされると、指摘したのが悪いことのように感じてばつが悪い。匋平は唇を尖らせた。
「いや、別に味は悪かねえけど」本当だ、悪くはない。匋平が今日初めて来店したのであれば、仕事が休みの日をさっと頭に思い浮かべて、次に来れそうなのはいつか算段を立てるだろう。はっきり言って、うまい。ただ、馴染んだ味が変わっていれば、聞いてみたくもなるのが人情である。
案外年がいっているので、よく依織が「いつまでも若ぅ見えるなァ」と世辞抜きで評するおやっさんだが、今日は年齢通りの顔に見えて匋平は焦る。まだ店を畳む頃合いではないはずだが、いかんせんこの人、調子の悪さをまったく表に出さないのである。以前も病気になったとかで入院していたのだが、匋平はその前日まで何も気づかずこの店の酒を飲んでいた。商店街の閉まったシャッターに、「ご愛顧ありがとうございました」の無情な張り紙が貼られていた時の寂しさったら!
「もう俺も引退かな」
「お、おい。悪かねえって言ってるじゃねえか。うまいよ、十分」
「そうじゃねえって。うまいのが問題なの」
おやっさんは厨房の隅に置いてある煙草の箱を掴むと、へそを曲げて勝手口から外へ出て行った。旧式のレジスターの前にたっていたおかみさんが、ちらっとその様子を見て厨房に入る。
「、お父ちゃんもう行ったよ。ちょっとおつかい行ってきて」
依織に言わせれば気前のいいおかみさんのはきはきした声が、厨房によく通った。すると、厨房の奥まったところから、青年がひとり出てきた。まかないがうまいこの店は、夜になると、彼くらいの年代の男子大学生たちがバイトで入る。青年もバイトたち同様、この店オリジナルの黒Tシャツに黒のパンツ、Tシャツと揃いの紺色の前掛けを腰に下げていた。髪にベージュカラーが入って手入れされているところから推測するに、それなりの格好をすれば見られるようになって、実際普段はそうらしいのが窺える。しかし、この店の持つ活気には、いささか気負けしそうなオーラだ。
見ない顔だ。昼からも誰か雇う方針になったのかと匋平が盗み見ていると、「ほら、このお客さんが褒めてくれてたよ。うまいってさ」とおかみさんが青年の背中を軽く叩いた。俯いていた彼が、ぱっと顔を上げる。整った前髪の揺れる様が、犬の垂れ耳のようだった。
おかみさんが匋平のほうを向いた。「うちの息子です」匋平に紹介する。その表情はどことなく自慢げだ。青年が軽く頭を下げた。
匋平は先程のおかみさんの言葉を反芻し、「へえ、あんたが作ったのか」と感嘆混じりに漏らす。
「でけえ息子がいたんだな。高校生……いや、大学生か」
「え?おれ、27です」
「……」
「……」
若見えは遺伝だった。
数日後、贔屓にしている卸問屋で、匋平は彼とばったり再会した。彼は私服姿だった。差し色の爽やかな水色も、全体のシルエットも、顔立ちや髪色によく合っている。シンプルだがセンスがいい。
彼は匋平に気づくと、初対面よりは気を許したふうで「こんにちは」と挨拶しながら近寄ってきた。
「よう、」偶然だな、と言いかけたのが消える。
(こいつ……でけえな)
厨房とホールでは床の高さが違うので、正確な高低差は曖昧だった。こうして同じ場所に立つと、彼の背の高さが際立った。匋平も決して背は低くないが、西門、いやもしかするとそれ以上に、彼は背が大きかった。
「そういや、あん時名乗ってなかったな。神林匋平だ」
青年が大きな体躯でぱあっと顔を輝かせたので、匋平は若干気圧された。
「おれ、です!」
「おう。よろしくな」
にこにこしているの後ろにゴールデンレトリバーの幻覚が見えて、匋平は謎の既視感が腑に落ちた。は、一緒に作曲をした時のSUZAKUに雰囲気が似ていたけれど、SUZAKUは匋平ではなく、あくまで匋平の作る音楽に興味津々だった。強面で人に避けられがちな匋平には、のそんな態度が慣れなかったが、存外、まんざらでもない。と同時に、気に食わない48の態度も思い出して、軽く舌打ちしたが。
はそれに気づかず、左右を見回している。どうかしたかと匋平が声をかけると、探している商品が見つからないと言う。
「その棚なら逆方向だぞ」
「あ、そうなのか……」
「……ったく、しょうがねえな。ついてこい」が、もうこれ以上はないだろうというくらいの喜色を顔に浮かべた。その反応もある程度予測できていたが、匋平は言い表せないむずがゆさを覚える。
声はまだまだデカくないが、店でもこの愛嬌を振りまけばいいのに。匋平は、昨日の依織との世間話を思い返した。
──おー、知っとるで。なんや、内気な兄さんやろ。
その言葉に、匋平は肩透かしを喰らった。依織もまた匋平と同じく、さらには匋平よりも先に、と会っていたらしい。依織も、話の流れでおかみさんにを紹介され、本人の手前、こら上等やなと料理を褒めたそうだ。
反面、「あそこまで行くと最後は好みやな、好み」と、依織は意外にもの料理を歓迎しているわけではないらしかった。依織の舌はよく肥えていて確実だから、断じての腕が悪いわけではない。一方で、前の味のほうがよかったという声も少なくないという。素朴で手作りのぬくもりを感じる、懐かしい味のほうが。匋平だって、慣れた味と違うと感じたのだから、賛否両論でもおかしくない。
どこに行っても人付き合いのいい依織は、店であれこれ見聞きしたのだろう、についてよく知っていた。が厨房に立つに至った経緯も──の殻に閉じこもった雰囲気は、その経緯のせいもあるのだろうと匋平は踏んだ。
「お前、昔から料理が得意なのか?」
歩きつつ匋平が尋ねると、は首を振った。
「いえ。おれ、大学生の時にひとり暮らし始めたんですけど、その時自炊するまでほぼ料理してないですね」
家庭科でやったくらいかも、と何気なく言う。それであの腕なのかと、匋平は舌を巻いた。他方で、不思議でもあった。の味は、確かにもともとの店の味とは違うが、ベースにあの店を感じられる気がするのだ。匋平はてっきり、自分が知らなかっただけで、は何度かあの店に立っていたものだとばかり思っていた。
「料理人とか目指さなかったのかよ。才能あるぜ、お前」
は一瞬喜びかけたものの、すぐさま渋い顔になって唸りだした。「おれ、小学生の頃からご飯屋さんだけはやだって決めてて……」
「なんでだよ」
「だって大変そうじゃないですか。基本休みはあってない感じだし、サビ残とかのレベルじゃないし。売上とかで悩みたくもないですし」
が何を──誰を思い浮かべているのか、匋平は察しがついた。そして、の味の根底に感じるあの店らしさが何に由来するのか、合点がいった。
匋平はあの店に特別な思い入れがある。あれこれ口出ししたい気持ちもあった。しかし、知り合って間もないのに野暮かと、匋平は「じゃあ子どもの頃の夢はなんだったんだよ」と話題を転がした。が黙り込んだ。
「……野球選手」
「は?」
「野球選手です」の耳が、真っ赤に染まっていた。
「おま、」匋平がたまらず噴き出す。「それこそ、安定もしねえ難しい職業だろ!」
匋平の冷やかしに、「匋平さん、そんなに笑わなくたっていいじゃん」とが拗ねる。その表情に強情っ張りなおやっさんの面影があって、匋平は濃い血の繋がりを感じた。似た者同士なのだ、この親子は。
が棚に目当ての商品を見つけて、匋平から逃げるがごとく早足になった。しゃがみ込んだ背中に追いつき、「わりぃわりぃ。そういやお前、なんの仕事してんだっけ」と、匋平は笑いをこらえつつなんとか話を戻した。
やや機嫌を損ねてしまっただったが、それでも匋平に懐いたのには変わりないらしく、あのあと、店を出て別れる前、ふたりは連絡先を交換した。
の本業は会社員だ。映像制作をやっている。昨今増えた在宅勤務が多く、時間の融通が利くので、店を手伝っているらしい。ただは、話したくないのか、それとも無意識に話題を避けているのか、自分の身の上話や店の事情なんかにはほとんど触れなかった。
代わりに、匋平についてあれこれ聞いてきた。匋平が音楽をやっていると知り、曲を聞いた数日後にショート尺のリリックビデオを作って送ってきて、匋平は感心した。ファッションセンスもなかなかだったが、映像作りのセンスはずば抜けているのが素人目にもわかった。料理人を目指さなかったのかと聞いたのを、少し後悔した。只者ではないだろうと気になって、からいろいろ聞き出した。は自分の作品をいくつか送ってきて、そのうちひとつは、神林も目にしたことのある映像だった。ますますリリックビデオを誰かに見せびらかしたくなる反面、誰にも見せずにとっておきたい気持ちもあって、匋平は考えた末、四季にだけ見せた。暗い四季が顔を明るくする様子は、風の止んだ部屋、真っ暗闇にぽっと蝋燭の灯りがともったような、静かな歓びだったから。
例の卸問屋でまた顔を合わせた時、言葉少なではあったが直接褒めた。仲間の四季が喜んでいたことも。褒められ慣れているのか、匋平の予想に反し、の喜び方は普通だった。
「ありゃよかった……」
だが、匋平がしみじみ感慨にふけって顔を緩ませると、もたちどころ同じように顔を緩ませた。
店で軽く立ち話をし、帰り道は方向が同じだったので、話しながら途中までふたりでのんびり歩いた。
はもう、メッセージの文面から人懐っこさが滲み出ていた。メッセージアプリを単なる連絡ツールとして用いることの多い匋平にとって、TCWの面々とはあまりしない雑談が多いのが新鮮だった。実際顔を付き合わせてみると、は匋平が喜ぶと一緒になって喜んでいるところが、というより、匋平が喜ぶのに喜んでいるところに、なんとも言えないかわいげがあった。前に口出ししようとして結局しなかった、あの時のちょっとした文句も、そんな顔を見ていると毒気を抜かれてしまう。それが匋平にはくすぐったかった。
『今日ってお店やってますか』
そして、とうとうは、Bar4/7にやってくるらしかった。その晩は、匋平の横に西門もいた。四季からカウンター席を案内されたは、西門を見て緊張した面持ちで、「こんばんはっ」とやや声を張って挨拶した。の視線がちらりと匋平を向いたが、匋平はプース・カフェ・スタイルのカクテルを慎重に仕上げている真っ最中で、声が聞こえてもすぐには顔を上げられなかった。が静かに肩を落とした。
「やあ、こんばんは。君が匋平の言っていた、くんだね」
「あ、はい……」
西門に柔和な笑みを向けられるも、はまだ人見知りしているのか所在なさげに立ち呆けていて、顔を上げた匋平に「よ」と声をかけられてようやく、カウンターの端寄りに腰を落ち着けた。匋平が客に虹色のカクテルを出す様子を興味深く見届けてから、「こんばんは」と仕切り直す。
「あれなんですか?すごい色」
「見たまんまだ。レインボー。何飲むよ」
「おれ、バーに来るの初めてでわからないんですけど、バーってメニューないんですよね?」の顔に、再び緊張感が漂い始める。
「いや?一応あるぞ。西門」
「はいはい」
人使いが荒いねとでも言いたげに苦笑する西門を、はじっと見ている。西門から簡素なメニューを差し出されると、あわあわしながら受け取った。カシスオレンジ、と口の中で呟くに、西門が「お好きですか?」と接客モードに入って尋ねる。はたちまち体を強張らせた。
「いや、全然好きとかじゃなくて、わかるのそれしか、」の目が、救いを求めて匋平のほうを見る。匋平がそれに気づくと、は匋平に向かって気持ち身を乗り出した。
「あんまり度数高くないのってどれですか?」
必死で西門そっちのけなに、匋平はだんだん笑いが漏れてきた。だって普段この店では、匋平と西門がカウンターに揃っていたら、常連客を除いては、匋平に声をかける客は圧倒的に少ないのだ!左腕にびっしり入ったタトゥーに、この眼鏡の相棒と比べれば、人相が悪いのも不愛想なのも、匋平自身よくわかっている。そのスタンスを変えるつもりもない。西門へのわずかな優越感で、匋平の態度はからかいを含んだ砕けたものに軟化する。
「お前、酒弱いのに来たのか?わざわざ」
「う……だって匋平さんいるし」大丈夫かと思って。がメニューで口元を隠してぼそぼそ呟く。「ま、バーだからってわざわざ酒を飲むこたねぇ。ノンアルもあるからな」匋平は気をよくしたのを隠しつつ、優しく教えてやった。
が唸った。「せっかくだしお酒飲みたい」まるで成人になりたての子どものようだ。
「甘いの、酸っぱいの、苦いの。そん中ならどれがいい」
「甘いの」即答だった。「やっぱ酸っぱいので」慌てて訂正が入る。
「無理してんじゃねえよ。俺も甘いモンが欲しくなる時はある」
「本当ですか?じゃあ甘いの」
「おう」
バーテンダーの時はダウナー気味が常なのに、どんどんご機嫌になる匋平を、西門がひっそり笑って横目に見ている。気づいた匋平が西門を思いきり睨みつけて、ビビったが挙動不審になった。
の好みや飲める度数をヒアリングしながら、それならこれだ、と匋平は手早く材料を選んだ。
「ほらよ」
鮮やかな赤に、逆三角形のグラスの底に沈んだマラスキーノ・チェリーがいかにもなカクテルっぽさを演出する。ベイサイド・ピーチ。香り立つ桃の香りに、が顔をほころばせた。
「ショートだからゆっくり飲め」
「? わかりました!」
恐らくショートの意味はわかっていないだろう。返事のわりに、は勢いよくグラスに口をつけた。ほんとだ、甘いですねえ、とへらへらしている。
ボックス席からオーダーの声が上がる。西門が「私が行くよ、匋平」と匋平を制し、に「どうぞごゆっくりお過ごしください」と微笑んだ。匋平がに視線を戻すと、はまたもや借りてきた猫状態になっていた。匋平の唇の端に、ふ、と笑いが漏れた。
はもう一度、今度は舐める程度にカクテルを口に運ぶと、匋平の頭を見ながら「髪結んでる」と呟いた。
「思ったこと全部口に出さなきゃ気が済まねえのか……?」
匋平が幾分か呆れても、「似合ってますね。俺ももうちょっと伸ばそうかな」とさらりと褒める。別に聞き流せばいいものの、油断していた隙を突かれて、匋平はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。音楽を褒められるのとはまたわけが違う。
「あの人が西門さん。仲いいですね」がそわそわしながら言う。
「まあな。腐れ縁ってヤツかな」
「いいなあ」
自分と西門、どちらを羨ましがっているかは火を見るより明らかで、匋平は少し気恥ずかしくなった。懐かれている自覚はあったが、ここまであけすけだと照れくさくもなる。眉を下げて情けない表情のは、余計に幼く見えた。
カクテルをよそにしばらくよもやま話をしていたが、会話が途切れるとはたびたび、何か考え込んでいた。話題がなくて気まずいというわけでもないらしく、本当にほんの一瞬間を置くと、何事もなかったように話へ戻った。
「わりぃ、。ちょっと待ってろ」会話の最中も、匋平の手は休むことなく動き続けていた。のその一瞬の間が、匋平には気がかりだったのだが、シンプルに聞くタイミングを計れない。「おいリュウ。これ持ってけ」
「全然。繁盛してると大変ですね」
の言う通り、その日Bar4/7は、珍しく賑わいという形容にふさわしい客足だった。匋平は煙草休憩に行く暇もなかった。「まあな、ありがたいこった」ニコチンの切れてきた匋平が、鼻を鳴らして卵白入りのカクテルを仕上げる。四季は目を回して洗い物を捌き続けている。この慌ただしさでもグラスを割らなくなったし、成長しているほうだ。
「お前こそ仕事は?おやっさんの手伝いはいいのか?」
匋平が次に使うリキュールを並べていると、また会話が途切れた。今度は不自然な沈黙。ワンテンポ遅れて、匋平がを見やる。はカクテルを見下ろしている。
「おれがいると、邪魔みたいなので」
らしくない、喜怒哀楽どれでもない、淡白な声だった。は匋平の視線に気づくと、「自分のほうは、さっき納品終わったので」と苦笑いして付け足した。匋平がその顔に見入った。言動や顔立ちが幼いからすっかり忘れていたけれど、は自分とそう年の変わらない──大人なのだ。
がカクテルをひと口、ぐっと飲んだ。匋平はの話に耳を傾けようとした、けれどリュウが空のグラス3つとオーダーを持って飛んできたから、それはしばし不可能になってしまった。
四季とリュウが仕事を上がる頃、アルコールが回り切るがごとく店内もゆったりしてきた。BGMのBPMも100を切って、深夜にぴったりのメロウなメロディに変わった。待たせたな、と言いかけたのを、匋平は咄嗟に飲み込んだ。は目がとろんとして、赤ら顔だった。瞬きの速度は遅く、一度閉じたらそのまま寝落ちそうだった。「お前……」匋平が呆れて前髪をかきあげた。やけに静かなのは、こういう店に慣れていないせいだと思っていたが、どう見ても思いっきり、酔っぱらっている。匋平はバーへの心理的ハードルを下げたつもりでいたが、対するが、どうやら多少の見栄を張るプライドを捨てきれなかったらしい。黙ってバージンでも出しときゃよかった……。数十分前、が来て柄にもなく浮かれていた自分が、匋平は恥ずかしくなった。
「ちゃんと帰れます」匋平のもの言いたげな空気に気づいてか、が舌足らずに宣言する。「眠くなるけど、いつも帰れてます……」
「あーそうかよ。そりゃよかった、何よりだ」
投げやりな匋平に、が目を閉じて笑った。「おいしいな」BGMに合わせて、体がゆらゆらと前後に揺れる。桃の香りが漂う。「次何頼もうかな」グラスは空っぽだった。匋平が無言で、水の入ったタンブラーと入れ替えた。
「匋平さん」
「なんだ」
「おれの料理、うまかったですか」
「ああ。うまかったよ」
飾り気のない賛辞だったが、酔っ払いをあしらうものではなく、匋平の本心だった。目を閉じて音に揺られていたが、うっすら瞼を開いた。
「おれもそう思ってます」さっきよりはっきりした声だった。「匋平さん、前に聞きましたよね。昔から料理得意だったかって」
が目を伏せて俯いた。いつの間にか、体の揺れはおさまっていた。
「思い出したんです、おれ。小学生の夏休みに、家族のご飯を作るって宿題出て、おれ、難しいの作って先生を驚かそうと思って、コロッケ作って……その時言われたんですよ。お前天才だな、お父ちゃんよりすごいコックさんになれるぞって」
「……」
「コックとか、嫌だったけど。……じゃあなんで、おれは邪魔なんでしょうね?」
顔を上げたが、へら、と自虐的に笑った。匋平は息を呑んだ。
「おれだってさ、一応、親のことくらい、心配してるんですよ。親父足痛めたって聞いたから、おれ手伝うよって言ってるだけなのに」
「」は徐々にカウンターへ前のめりになっていく。しまいには額に手を当てて俯いた。
「何が不満なわけ?マジで。……ほんと、ムカつくな」
声を押し殺して呟いた。
匋平は無言で見ていた。が店にきた理由がわかって──こっそり溜息をついた。煩わしさ以上に、どうしてやればいいのか、自分に何ができるのか、わからなかったから。
が話した内容を、匋平はとうの昔に知っていた。おやっさんが足を痛めていること、それで息子のが手伝いに来ていること、しかしおやっさんがそれを快く思っていないこと、そのせいでふたりは半ば仲違いしていること──依織から聞いた通りだ。
だが現実には、もっと多くの糸が幾重にも交差しているかのごとく複雑な事情に思えた。情という、良くも悪くも理屈では断ち切れぬ糸だ。匋平は依織と違って、おやっさんと、どちらの言い分や考え方も、よくわかる気がする。だからどちらにも肩入れしそうになる。
「。酔いすぎだ。お前」
たしなめと心配が入り混じり、発した声はしんみりしていた。
「褒めてください」
匋平は返事をしなかった。ここで慰めて何になる?現実は何も変わりはしない。
たとえと初対面であっても、匋平は適当な返事をする気はなかった。魂のない上辺だけの言葉は、この店にふさわしくない。他人事を他人事としない。本物であること。それは、ひいてはTCWの美学でもある。
「褒めてください、おれのこと……」
が急かしてくる。褒めてやりたいのは山々──そんな甘っちょろい考えが一瞬でも浮かんだ自分に、匋平は愕然とした。(マジかよ……)いつの間にか、にほだされている自分が情けなかった。
匋平は思考を巡らせる。どれもしっくり来なかった。に伝えたいことはあるが、人に説教できるご身分でもない。無論、甘やかす気もさらさらない。じゃあどうするよ?何度やっても振り出しに戻ってしまう。
(駄目だ、ゴチャゴチャ頭で考えてんのは、俺のスタイルじゃねー)
普通客の事情なんて深入りしないもんだから、ニコチンを欲してイライラしだした頭で、匋平は天を仰いだ。そして、会計を終えてカウンター内に戻ってきた西門を呼び止めた。
「西門。ちょっといいか」
「ん?」
「代わってくれ、……弾きたい」
もちろん。西門が嬉しそうに頷く。
「」
ほぼほぼカウンターに突っ伏しかけているの肩を、匋平が軽く叩く。西門が奥に引っ込み、BGMのボリュームを徐々に絞っていく。
が顔を上げると、体温で揮発した甘い桃の香りが漂った。前髪の影の奥で、酔って潤んだ瞳が揺らめく。匋平がピアノを親指で指さした。
「来い。聞かせてやる」
「え、」
何のことかわからないらしく、視線が泳ぐを、匋平は「早く」と急かした。
「あ、はい」
催促されるがまま、が高い椅子から降りる。やっぱでけえ。見上げて、匋平は心の中で独りごちる。バーチェアで足が足りている客とはこれまた珍しい。
帰れると言ったのは嘘ではないようで、はしっかり立っていた。それを確認して、匋平はピアノの前に腰掛ける。遅れてついてきたが、衆目を集めて背中を丸めた。
今夜は客が多い。派手な幻影ライブと違い、この店ではギャラリーが少ないほうが正直性に合っているが、仕方がない。匋平が白鍵上に指を置く。時期的に椿の置かれていないピアノは、少し物寂しいが──匋平はを振り返った。
「耳かっぽじってよーく聞いとけよ」
乱暴な言葉とは裏腹に、優雅で繊細なメロディが紡ぎ出される。溶けるような心地よい音。狭い店内のそこかしこから、感嘆の息が漏れた。
初めこそ、匋平の指の動きに魅入っていただったが、途中で、あれ、と目を瞬かせた。それを横目に確認して、匋平はペダルを踏み続ける。ここはキャッチーで、初心者にもわかりやすいフレーズだ。
ピアノはいい。煙草なんかよりよっぽど頭がスッキリする──最高にいい気分だ。
弾き終わると、控えめな拍手が起こった。曲のムードに合わせてだったが、それでも十分、人々が聞き惚れていたのがわかった。もう誰も、匋平の隣に突っ立っているには目もくれていない。
「どうだ」
「うまい……です」
は歯切れが悪い。匋平はあっさり「でも一緒だぞ、さっきと」とネタばらしする。
「あ、やっぱり」さっきもかかってましたよねと、がカウンターを──BGMの音源を振り返った。この店こだわりのジャズ音楽集からの一曲だ。客たちはまだ余韻に浸っていて、おしゃべりで生まれるかすかなざわめきが、BGMの代わりを果たしていた。
「そうだ。ま、あれがありゃ、俺ぁ用無しってこった」
匋平が心にもない軽口を叩く。西門がBGMのボリュームを徐々に戻していくと、匋平の生み出した魅惑的な音色も、やがて引き潮のように客の意識から去っていくかに見えた。
しかしは違った。ちょっと怒った顔をして、「そんなことありません。匋平さんのほうがいいです、絶対」と言い張った。
匋平は無表情で、の目をじっと見上げた。もじっと匋平を見つめ返した。内向的なくせに、の瞳は一丁前に揺るがなかった。
プライドだ。この男の中にも、確固たるプライドの炎が燃えている──あの親にしてこの子ありか。匋平がくしゃっと破顔して肩をすくめた。
「お前が違いのわかる男でよかった」
俺も自分で弾くほうが好みだな。匋平の雰囲気がガラッと変わって、が露骨に戸惑った。西門が、ウィスキーグラス片手にふたりのそばへやってきて、匋平に渡した。シンプルなオン・ザ・ロック。演奏終わりの一杯は、格別にうまい。BGMの音はすっかり元通りになって、ピアノの軽やかな音色が、会話するのにおあつらえ向きだった。
「俺はな、あの馬鹿が長いこと留守にしやがったから、ずっとこの店にいたんだ」
匋平は、離れた西門を顎で指すと、遠い目をした。
「このピアノと……この店を守りたくてさ」
口で言うほど簡単ではなかった。並大抵の覚悟ではなかった、生半可な態度では無理だった。
店の切り盛りは想像以上に大変だった。愛した人も相棒も夢も同時に失った、その悲嘆に暮れる暇さえ忘れる時もあった。先代のオーナーも高齢で、彼からは気遣い無用だと遠慮されていたとはいえ、それも気が気でなかった。
眠りにつく前、ふと、もうやめたほうがいいかと己の胸に問う日もあった。重厚な店構えで働く匋平は、青二才がという冷たい目で見られることも、理不尽な思いをすることも多々あった。気の強さや忍耐で乗り越えられても、時々つらいと感じてしまった時は、ガキでしかなかった自分が知った気でいたことや、西門たちに守られていた事実が、何倍にも滲みて、痛んだ。もろもろ積み重なって不安で押し潰されそうになる夜を、幾度となくひとりきりで過ごした。
そんな時匋平を奮い立たせたのは、いつだってちっぽけなプライドだった。ここに辿り着くまでにも持っていた、内ポケットに秘めた、馬鹿げたいっぱしのプライド。
この店を愛していた。音楽と、何より、大切な人たちと引き合わせてくれたこの場所を。生きる意味。居場所だった。この店を畳むことは、匋平にとって己の死同然だった。土地買収の話が出た時だって、文字通り、死んでもこの店は譲れなかった。
「お前、簡単におやっさんを手伝うって言うが、お前が必死に店を回したとこで、その先何が残んだよ」
虚を衝かれ、がまごついた。匋平には、それが明白な答えに思えた。客商売をやる人間に、情けや優しさは時として必要だが、それだけでやっていけるほど甘くはない。葛藤に歯を食いしばってでも、店にしがみつく覚悟。それがには欠けている。
「嫌なんだろ、料理人は」は何か反論しかけて、しかし言葉が見つからないで、気まずそうに下を向く。
匋平は、に腹を括れと説く気は毛頭なかった。率直に、にその手の職が不向きに思えたからだ。努力すれば最低限身につくものかもしれないが、それより今の映像の仕事を続けたほうが絶対にいい。最初こそ本業を知らなかったから、味だけで判断して気軽に料理人を勧めてしまったけれど、今となっては映像作りのほうがよっぽど適任だと思う。匋平に映像作品の良し悪しはわからないが、に才能があることくらいはわかる。成果物だってその証拠だ。
お前天才だな──実の親ならなおさらだろう。そんな気がした。
ずっと昔、この店に来た翠石のオヤジが懐かしくなった。オヤジは匋平を応援してくれた。翠石組を抜けても、オヤジや依織、兄貴たちとの絆、組での過去、全てなかったことになるわけじゃない。匋平は、自分が生きているとより実感できる場所を見つけて、そこで生き抜く覚悟を決めた。オヤジに自分の本気が伝わったことは、今思い出しても胸にくる。
どこでどう生きていくかは、自分で選んで決める。それぞれ役割があると、匋平は信じている。
「おやっさん、心配してんじゃないのか。お前のこと」
は黙り込んでいる。返事を待つ時間が、永遠に続くようにも思われた。
母さんと、同じこと言うんですね。の顔の赤みは、とっくに引いていた。
唇が乾燥していたからか、ウィスキーを舐めると、わずかなしょっぱさを感じた。
『今日ってお店やってますか』
『おう』
(余計なお節介だったかもな)
匋平が、ひとりBar4/7で煙草を燻らせ、物思いに耽っている。今日は店休日だった。リュウは朝からどこかへ散歩に出かけて、四季はまだ学校にいる。西門も大学だろう。
あの夜を境に、から連絡がこなくなってだいぶ経つ。匋平の性格上、密にやり取りする仲でもなかったが、意図的に避けられている感じがした。
でも匋平は、が店を手伝うにしろなんにしろ、おやっさんや自分の言うことを理解できないならそれまでとも、残念だが思う。
おやっさんは、が生まれるずっと前からあそこに立っていた。そこに敬意を払わないと、それは誰にだって伝わってしまう。事実、依織を初めとする何人かの客は、の存在を好ましくは思っていないのだ。今のが仮に店を継いだところで、その内見捨てられるのがオチだ。
ただ匋平は、をそんな男じゃないと信じたい──堆く積まれた吸殻の山に、もう1本が乗る。
匋平は目を閉じてあの店を思い浮かべた。酒と油、汗と紫煙の匂い。笑い声や喧噪。壁を埋め尽くす赤と黄色の短冊。赤いインクだっただろうが、光で焼けてオレンジになった味わい深い手書き文字。色褪せたビールのポスター。何ひとつ変わらないまま、いつ行ってもどこか懐かしいあの店は、過去に何度も匋平を優しく出迎えてきた。
あの店で、強く記憶に残っている出来事がある。西門がいなくなってからある日のことだ。店の行く末を憂いた匋平が、つい険しい顔で食事をつついていたら、トンカツが出された。頼んでないとおやっさんに言うと、サービスだと言う。若いんだからしっかり食え。ぶっきらぼうな言葉に、添えられたカラシも鼻にガツンときて、不覚にも涙が出そうになったっけ……。思い出して、匋平は過去の自分のダサさに笑った。ああいう気概こそ商売をやる上で必要なんだと、あの時教えられた気がする。
「あー……腹減った」
思い出に浸っていたら、揚げ物の舌になってしまった。ビールもほしいところだ。匋平は首を回すと、椅子から立ってテーブルの上を片付け、財布をポケットにしまう。西門に、四季とリュウの夕飯の世話を頼む旨を送って、店を出た。梅雨も終わって今日は天気がいい。確かに絶好の散歩日和だなと、リュウの顔を頭の片隅に浮かべつつ、匋平の足取りは軽くなった。
おやっさんの店まで歩いて行くと、店の前に男がひとり立っていた。満席かと思いかけたが、男が立ち往生している風なのを匋平は不思議に思った。
近づいた匋平は、背丈ですぐ気づいた。
「」
匋平が驚いて声をかけると、が飛び上がった。
「匋平さん?なんでここに」
「そりゃ、こっちのセリフだよ。何してんだ?お前」
まさかここにいるとは思ってもみなかった。しかも見た目が、いつもの感じと違う。髪型のセットもだし、黒ずくめの服にダークなカラーレンズの眼鏡までかけて、まるで変装だ。ある意味、クリエイターっぽくはある。状況が謎で、匋平は思わず素っ頓狂な声になった。
その時、店の戸が開いて、年配の男性客ふたりが出てきた。「またどうぞ」戸の奥から、おかみさんの快活な声が響き渡る。
脱兎のごとく逃げ出しかけたの腕を、匋平は反射的に掴んでしまった。
「どこ行くんだよ」
怪しげな風体のが、レンズの奥で目を泳がせている。所作はいつもと変わりない。
「匋平さんお店来たんですよね?入ってください」
「お前こそ、今入ろうとしてただろ」
「お、おれはいいです」
むきになった匋平が、の腕を無理やり引っ張った。は抵抗するも、匋平が店の戸を開けると、ああ、と弱々しい声を漏らした。
「いらっしゃい!何名様ですか」
「ふたりで。それと生ふたつ」
匋平の後ろで、が縮こまってあらぬほうを向き、デカい図体で隠れようとしている。おかみさんは笑顔で、しかしはてなマークも頭上に浮かべつつ、「生ビールふたつね。席奥どうぞ」と勧めた。
物陰寄りの席についたが、机に突っ伏し脱力する。「バレたかと思った……」
匋平はメニューに目を通すと、「逆に胡散臭いぞ、お前」と事もなげに言った。
「というかおれ、ビール飲めませんけど」
「知ってる。お前がバレたくなさそうだから、あえて頼んでやったんだろ。どっちも飲むから、お前、あとで好きなの頼んどけ」
「それより何頼むよ」あくまでも食事に来た体の匋平に、は唇を尖らせていたが、「匋平さんは何食べるんですか」と尋ねる。
「トンカツ。……あーあと、揚げ餃子もいいな……」
真剣に悩んでいる神林の向かいから、がふてくされ顔でメニューを覗き込んだ。「おれポテサラ。あとエビフライ」
「ここのタルタル、うまいよな。飲み屋にしちゃ珍しいが。冬なら牡蠣フライ一択」
「タルタルこだわってますからね、うちの、」が続く言葉を飲み込み、顔を引き締める。匋平はちらりと一瞥したが、触れずに流した。
ビールと、お通しの切干大根が運ばれてきた。店内は混み合い出していて、おかみさんはすぐ来てすぐ去っていった。匋平とは形だけの乾杯をして、匋平だけがビールを煽った。
「お前……」ジョッキを置くと、匋平はの顔をまじまじと見ながら眉根を寄せた。「もしかして、仕事が忙しかったのか?」
「なんでわかるんですか」口に切干大根を運んでいたが、怪訝そうに身を引く。
「なんとなく」とは言ったが、理由は単に、の顔が疲れていたからだった。さっきは陽の下にいてわかりにくかったが、店内に入ってこうして向き合うと、目元や肌の細かいところがよく見える。肌の感じも四季なんかとは全然違って、の実年齢を感じた。
「結構大きい案件入ってて。全然、ありがたいんですけどね。今は先方のリテイク待ちで一旦一段落して、でもまた明日から忙しくなりそうで……」
あー、と意味をなさない声を上げながら、が片手で頭を抱えた。アルコールは一滴も入っていないのに、素面らしからぬ苦労感が滲み出ている。
連絡を放棄していたわけではないのかもしれない──安堵の気持ちを隠して、匋平はビールの残りを一気に飲み干した。おかみさんがポテトサラダを運んできて、が烏龍茶を欲しがったので匋平が代わりに頼む。バイトらしき大学生がひとりふたりと店に入ってきて、威勢のいい挨拶をしている。とは大違いだ。烏龍茶はそのうちのひとりが運んできた。
ふたりでしばらく黙々と、ポテトサラダをつついていた。「あ、来ましたよ」が小声で告げる。おかみさんが、トンカツとエビフライを景気よく一気に持って来た。
トンカツを見て、匋平が呟いた。「カラシじゃねえ」小皿の中身は薄い黄色をしている。
「たぶんカラシマヨでしょ」
が当然のように言う。匋平の不可解そうな顔を見て、「うちのはそうなんですよ」と補足する。どうやら、匋平がこの店でトンカツを頼んだことがないと勘違いしたらしかった。
(いや、いつもカラシだぞ)
思い出の詰まった一品で、よく頼んでいるから間違いない。今日は厨房にが立っているわけでもなし──匋平が振り返って店内を見回す。ちょうど偶然、カウンターに料理を出しているおやっさんと目が合った。厨房から遠く離れた店の隅っこの、この距離感で。目が合うということは、こちらを見ていたということに他ならない。
おやっさんは弾かれたように顔を逸らし、そそくさと背を向けた。匋平はピンときた。おやっさんの忙しない後ろ姿を眺めつつ、「なあ」とを呼んだ。
「はい?」
はエビフライにタルタルソースを広げて塗りたくっている。
「なんで客としてここに来た?」
返答がなかった。匋平がに向き直ると、は箸を止めて考え込んでいた。
「おれがいなくても店が大丈夫そうか。見に来ました」
狭めの店内は、店員があちこち行き来して、せかせかしているが活気に満ちていた。おやっさんは足を痛めているそうだが、知っていても、まったくそうは見えなかった。それどころか、額に汗して厨房に立つ姿は、この店の誰よりも生き生きしていた。
匋平と目を合わせると、は眉を下げて笑った。
「おれ、やっぱ料理人は向いてないかも」
そう言うと、誤魔化すようにタルタルまみれのエビフライにかじりついた。あち、と漏らした口端に、ソースがついていた。軽い衣の音が、匋平にまで聞こえてくる。の頬に血色が乗った。ずいぶんうまそうに食うので、匋平もトンカツをひときれ食べた。カラシマヨのトンカツは、うまいが、匋平には少し物足りなかった。「半分やる」とに皿を押し出す。
「いいんですか?じゃあ匋平さんも、エビフライどうぞ」
「おう」
しかし匋平は、箸を置くと頬杖をついて、がカラシマヨに無心でトンカツを突っ込むのを観察していた。がトンカツを頬張るのを見届けて、「大丈夫じゃなかったとしても、お前が手伝うこたねぇわな」そう言った。えっ、と言いかけたがむせた。なかなか咳がおさまらない。目にほんのり涙を浮かべ、顔をしかめて鼻の辺りを手で押さえている。
烏龍茶を喉に流し込んだは、ほうっと一息つくと、指で涙目を擦った。それからおもむろに卓上を見下ろし、「食べるの忘れてました」肩の力を抜いた。匋平はポテトサラダの残りを箸で寄せ集めながら、黙ってそれを聞いていた。
「手伝いにきてから、親父の料理食べてなかったの。忘れてました。この前、匋平さんの店から帰る時それ思い出して──」
はもう一度息を吐くと、吹っ切れたようにもうひと切れトンカツを食べた。「うまっ」メニューを手に取った。匋平がポテトサラダをたいらげた。
「うまいよな」「全部うまいですね」
それからは、あまり無駄話をしなかった。ふたりで好き勝手頼んだ料理と飲み物が、小さな卓上を埋め尽くした。灰皿があったが、匋平は煙草の1本も喫わなかった。互いに、メシと酒と、店の熱気をただただ味わっていた。
会計には、匋平の隣にが並んだ。おかみさんはには触れないで、「ありがとうございました。またどうぞ」と、いつものにこやかな調子で言った。
財布をしまう匋平の横で、が厨房のほうへ首を伸ばし、声を張り上げた。
ごちそうさまでした。
そこかしこに散らばった店員から、またどうぞの返事が飛ぶ。ややあって、厨房の奥からも聞こえた。
「あ~つっかれた!」
「お前、声でけぇな……」
開店直後、まだ静けさに満ちているBar4/7で、がカウンターに突っ伏している。ピアノの上には、見頃になった椿が飾られていた。
出会った頃の遠慮がちな態度はどこへ行ったのかと、匋平は吸い始めたばかりの煙草を片手に考える。まあそれも、こうやって堂々との前で煙草をふかしている匋平とて、同じことではあるが──煙を肺一杯に吸い込んで味わっていると、フレーバーに混じり、油の匂いが匋平の鼻先をついた。
「なんだ、おやっさんとこからの帰りか」
が顔をパッと上げて、にこやかにピースサインする。笑った顔は母親譲りだと、匋平はついこの間、の家で思い至った。
「はい。無事案件終わったんで、ちょっと奮発して」満腹になったらしいの頬は肌艶がいい。「ここに来たのも自分へのご褒美で~す!」
「ふーん」
匋平は煙草を消して片付けると、のオーダーを聞かず、手早く材料を量ってシェイクする。
出来上がったのは、あの日飲んだベイサイド・ピーチ。
「うわ~!懐かしい。今日はいいんですか?」
匋平は何も言わない。それを無言の肯定と受け取ってか、が口をつける。そして目を輝かせた。
「匋平さん、おれ酒慣れたかも!」
「バーカ。ノンアルだよ」
匋平が鼻で笑った。