「おーい、!」

 上司であるトニー・スタークから名前を呼ばれて、はキーボードを叩く手を止めた。
 パソコンのモニタ越しに顔を上げると、そこにはトニーと見知らぬ青年がいた。きらきらした強い瞳が、には印象的だった。

「新しく入った研究助手バイトのピーターだ」
「こんにちは、初めまして、ピーター・パーカーです」

 ピーターはに歩み寄ると、モニタの上から手を伸ばした。も微笑むと、「私は。よろしく」とその手を握った。
 ピーターの握手は思ったよりも力強く、は内心驚いた。ピーターもまたに対して、美人だ、と内心驚いていた。

 しばらくすると、ピーターも徐々に仕事に慣れていった。からすると、ピーターはおもしろい人物だった。軽妙な喋りは場を明るくさせ、数日もすると仕事場は少しにぎやかになった。
 何より、これからますます寒くなっていくと思うと、ピーターの淹れてくれるコーヒーは欠かせなくなるとは思った。ピーターのコーヒーを飲みながらのデスクワークは、よりはかどっているような気がするのだ。

 くしゅん、という音が聞こえて、はイスに凭れながら後ろを振り返った。ずっと同じ姿勢でいたの背骨が小さくぽき、と鳴った。
 書類整理をしているピーターの鼻は赤かった。が机の上のティッシュ箱をピーターに差し出す。

「風邪?」
「そうかも……」

 言いながら再度、ピーターはくしゃみをして、それから決まり悪そうに鼻を啜った。はそれを見て、デスクの引き出しの中からチョコレートの箱を出した。
 箱から1粒つまんで自分の口の中に入れ、もう1つをつまんで「あげる。キャッチして」とピーターに放り投げた。ピーターは慌ててキャッチする。

「ナイスキャッチ」

 悪戯をしたような顔では笑った。その顔にピーターは少しだけどきりとした。
 ごまかすように口に入れたチョコレートは、少しだけオレンジの味がした。





★★★





「ピーター、悪いがあいつを呼んできてくれ」

 ピーターの上司であるトニーが呆れた顔で自分の後ろを指差した。トニーの研究仲間であるノゾム・アカツキも苦笑いしている。
 あいつ、とは、未だに機械に張り付いて仕事をやめないのことであった。

 ここ数週間でわかったことは、が重度のワーカホリックである、ということだった。たとえ次の日が休みであっても、「休みなら多少無理をしても」と無理やり働こうとするのである。
 トニーいわく「食事も睡眠もしない」ので、ピーターは最近もっぱらのシッター役だった。

 初めの頃は驚き心配もしていたピーターだったが、その内自分が世話を焼いたほうが早いと気がつき、今やすっかり専属の助手のようになってしまっている。

「はいはーい」

 ピーターはすばやく、壁際のコートかけにかけてあるのコートとマフラーを手に取り、のほうへと駆けていった。
 その様子を見たトニーとノゾムは顔を見合わせて肩をすくめた。

「もう仕事は終わりですよー」

 キャスター付きのイスを強制的に引っ張ると、驚いたがぴしりと固まった。
 それからピーターの方へ振り向き、気まずそうな顔をする。それから、頭を掻いた。

「……ごめん」
「僕、今度からあなたのデスクに目覚ましのおもちゃでも置いておこうかな」

 はピーターからコートを受け取って袖を通す。仕上げにマフラーを巻こうとすると、代わりにピーターが熟練の手つきでするすると巻いた。

「寒いからしっかり暖かくして」

 そういってピーターはに微笑んだ。は年下のような扱いをされたのが少し恥ずかしかったのか、何も言わずにマフラーに口元をうずめた。
 ピーターがかわいい人だな、と思っていたその時、嫌な予感がピーターの身体を駆け巡った。スパイダーセンスだ。

 急にこわばった顔つきになったピーターに、は少し怪訝な顔をした。しかしピーターはにっと笑うと、「しまった、用事を思い出した!」と言った。

「すいません、ちょっと僕急いでるんで先に帰ります!」

 の後ろにいるトニーとノゾムにそう声をかけると、話し込んでいた2人は何度かうなづいた。
 それからのほうへもう一度視線を戻す。

「僕としたことがうっかり。デートの約束を忘れるなんてね」

 ピーターはぱちりと1つウインクした。が目を丸くする。
 ピーターはそのまま駆け出そうとした。

「恋人が、いるの?」

 ――しかし、背後から聞こえてきた小さな声に、思わず足を止めてしまった。
 驚きながら振り返ると、いつもどおりのがいた。しかし、数週間付き合うなかで、ピーターは少しずつの表情を読み取れるようになっていた。

 少しだけ寂しそうなの顔に、ピーターはまた、大きく心臓が跳ねたのを感じた。
 年上でいつも食えないの、迷子になった子供のような顔は、ピーターにとってはとてつもなく新鮮なものだった。

 ピーターはなんともいえないもどかしい気持ちになって、眉を下げながら笑う。もう行かないと。

「……ジョークですよ。本気にした?」





★★★





 小悪党を成敗して、ピーターはついでに街中を見回りすることにした。どんどん冬に近づき、夜は冷え込みが激しい。
 ピーターはくしゃみをしながら、今日ののことを思い出していた。

 ふと、女性の小さな声が聞こえたような気がして、ピーターはビルの上に着地して下を見回した。

 暗い場所に目を凝らすと、男が数人、女性を取り囲んで腕を引っ張っていた。

 ピーターはすばやくビルを伝うと、女性の前に降り立った。女性はだった。

 ピーターは驚きと同時に、自分でもよくわからない怒りと、男に対する嫌悪感に包まれた。
 マスクの下で思わず眉根を寄せる。いつもの軽口も少し皮肉げな声色になった。

 男達はピーターに気が付くと、警戒して少しだけ後ずさった。様子から察するに、特別な能力などはないらしい。

「! スパイダーマン」
「もうすぐクリスマスだからって、こんな風に女の子を無理やり連行するのはよくないね。僕も独り身だし、君たちもこんなことしてないで……」

 言い終わらないうちに男の1人が切りかかってきたので、人命第一とピーターはを抱きかかえてビルを上った。
 いくつかビルを飛び越えたが、はその間じっと黙っていた。冷静ならしいと、ピーターは少しだけ笑った。

「君はここで待ってて。あいつらを警察に突き出したら、すぐに人通りのある場所につれていくから」

 先ほどのごたごたで靴のヒールが折れてしまったらしいは、よろめきながらもこくりと頷いた。
 ピーターはマスクの下でにっこりと笑うと、再びビルを飛び降りた。





★★★





「ごめん待った? もう大丈夫! 僕があいつらを捕まえたから」

 ピーターが再びビルの屋上に戻ってくると、は靴を脱いで、片手に靴のストラップを引っ掛けたままその場で待っていた。
 ピーターが相手から聞きだした内容によると、どうやらどこからかディスクの話が漏れ、その関係者であるを誘拐しろと命令された、ということだった。命令した相手が誰なのかはわからなかったので、トニー・スタークことアイアンマンに、そのことを伝えておいた。

 はピーターを見て小さく笑った。黒のタイツをはいているものの、靴を履いていない足は寒々しい。

「ありがとう、スパイダーマン」
「いいえ……っくしゅ」

 軽いおしゃべりを続けるつもりが、鼻の不快感に襲われて、ピーターはまた1つくしゃみをした。早く治さないと、と思っていると、が目を丸くして自分を見ているのに気が付いた。

「風邪?」
「そうかも……」

 返事をしてから、ピーターはこれは前にもした会話だと気が付いて少し焦った。知り合いだと、自分の正体がバレそうな気がするからだ。
 は何も言わずに、ただ悪戯げに微笑んだ。その表情に再び、ピーターはドキリとした。

「あなたって、私の知り合いに似てる」
「ワオ、本当? その知り合いも僕に似てるなんて光栄だろうね。明日から自慢し放題だ」

 舌はよく回ったが、ピーターは内心はらはらしていた。
 は一歩一歩、ピーターに近づく。
 ピーターはその場から走って逃げようとしたが、身体が動かずに、僅かに後ずさりした。心臓が早鐘を打っているのはもはや正体を知られるという危機感だけではなかった。

 の蠱惑的な笑みに、弧を描く唇が生々しく感じる。ピーターは唾を飲み込んだ。

「本当にそっくり。その子も今、たぶん風邪」
「お大事に、ってスパイダーマンが言ってたと」
「あなたも」

 そういいながらは、自分が巻いていたマフラーを取り去り、ピーターの首にかけた。
 スーツの首越しに、の体温の移ったマフラーが触れて、ピーターは少しくらくらした。

 いつもは室内灯かモニタの光に照らされているの瞳が、月の光で妖しいくらいにきらきらしている気がした。
 いよいよ眼前にの顔が迫って、ピーターは息を詰めた。それでも張りぼての余裕をぶら下げて、ピーターは口を開いた。

「あ、りがとう」

 おしゃべりな口が重たくなり、思わず言葉が途切れる。
 すると、がぐっとマフラーを手前に引っ張った。当然、ピーターの頭はがくんと前に突き出した。
 の持っている靴が、こつんとピーターの胸板に当たる。

「!」

 ピーターは驚いて目を見開いた。

 なぜならがマスク越しに、唇でピーターの唇に触れたからだ。
 瞼を伏せたの睫が、冷たい空気に震えている。

 はそっと瞳を開けて、ピーターの目を見ないまま「私、あなたのこと……知ってる」とつぶやいた。

「すぐに気が付いちゃった。ごめんね。ありがとう」

 そういってがそっと、マフラーから手を離し、右足を1歩後ろに引いた。暖かい体温が1つ、また1つと離れていく。

 その「ありがとう」がどういう意味なのか。どうしようもない気持ちになって、ピーターは手を伸ばし、の腰に回した。
 そしてスパイダー・ウェブを出して、の腰を捕まえ、そのまま引っ張った。腰と腰がぶつかって、驚いたが顔を上げる。

 ピーターはマスク越しにを見た。

「あなたは……僕のことが好きなの?」
「……君が、私のこと好きだったらいいな、って思ってはいる」

 は悪戯っぽく笑った。それでも、少し辛そうだった。
 ピーターが1つため息をつく。はそれに、小さく肩を跳ねさせた。

 ピーターは親指を、マスクと皮膚の境目に差し込んだ。ひんやりとした冷気が侵入して、少し鳥肌が立つ。

「……気のないフリして、あなたのほうが僕のこと、好きなくせに」

 ピーターはもう1度、大きなため息をついたが、それに少しだけ笑いが混じっているのには気が付いた。

 ピーターはマスクを取り去ると、に顔をろくに確認させないまま、キスをお返しした。
 の頬の辺りに右手で触れて、左手での身体を掻き抱く。

 一瞬のできことで驚いて目を閉じられないの目の前には、ピーター・パーカーの顔があった。
 こわばって宙を掻くの腕が、ゆっくりと下がった。靴のストラップが指先から離れて、靴が地面に転がる。

 はそろそろと、ピーターの背中に手を回した。いつのまにか、腰のスパイダー・ウェブはなくなっていた。

 目を伏せて、お互いの身体を密着させる。冷たいピーターの身体が、には少し心地よかった。
 唇を離すと、はそのままピーターに抱きついた。のコートからはピーターのコーヒーの香りがする。

 は小さく口を開いた。真っ白な息が、夜空に溶けていく。

「……それも、ジョーク?」
「……何が?」
「君のほうが、私を好きでしょう」
「……僕があなたに好きって言ったのはジョークだと思わないの?」
「それがジョークなんていやだから」

 ピーターはうっと詰まった。やはり彼女の方が上手らしかった。赤い顔をごまかすように、ピーターはの小さな肩に顔をうずめた。小さく「」と彼女の名前を呼んでみる。彼女は笑っているのか、ピーターの身体にも僅かな振動が伝わってきた。
 はこっそり、こんなに激しくドキドキいってるのにジョークなはずがない、と思っていた。

 クモの糸で彼女を捕まえたつもりだったのに、とピーターは内心ため息をつく。
 いったいどっちが捕まえられたのか、真っ赤な顔のピーターと、幸せそうに笑うを見れば、それは一目瞭然な気がした。

 どっちにしたって逃げられりゃしないけど、とピーターはをより一層抱きしめながらそう思った。