どれだけ好きになれば気がすむのだろう? いつまで好きでいればいいのだろう?





――疲れた。

はそっとため息を零した。つい先日までの雨が嘘のように、空は晴天で、心地よい風が吹いている。病室には灯りが付いていなかったが、穏やかな木漏れ日がリノリウムの白い床を照らしていた。

ヒーロー協会から「無免ライダーが交戦中に怪我を負い、病院に運ばれた」という連絡が来たとき、は思わず電話の子機を落としてしまった。
それからろくに準備もしないまま、財布と携帯だけを持って、教えられた病院までタクシーを飛ばした。
病院の清潔なベッドで眠る満身創痍の無免を見たとき、は思わず泣きそうになった。

パイプ椅子を出してくれた女性看護師は、「命に別状はありませんから」とを励ますようにいうと、静かに病室を出て行った。
は椅子に腰掛けて、無免のケガをしていない右手をそっと握った。小さく脈打つ手のひらは、以前と変わらずあたたかかった。

――命に別状はない、か。体は頑丈だもんね。

看護師の言葉を思い返しながら、の瞼裏には、在りし日に自分を助けてくれた広い背中が浮かび上がった。高校生のとき、怪人による災害での両親は亡くなった。無免はを守り、の家族になろうとしてくれた。

無免の正義感には何度も励まされてきたし、助けられもしてきた。
いつしかの中にあった無免への感謝の気持ちは、苦しいばかりの恋心へと色づいていった。けれども、が自分の気持ちを伝えるには、無免との距離は近すぎたのだ。

はいつもふとした瞬間に、自分の心を打ち明けそうになってしまう。喉奥で押さえ込んでいる衝動は、普通に暮らしているときに感じるものよりもずっと息苦しい苦痛だ。気持ちを伝えても、きっと無免は困るだけだろう。そう思うと、くすぶる気持ちはふっと姿を隠す。代わりにまた、苦しさが増していくのだった。

嫌いになれたらいいのに。そうすればこんな風に、彼の全てに一喜一憂しなくてすむ。感情に振り回され続けて、私はいったい何がしたいのだろう。しんどさだけが、の心に降り積もっていく。

無免の姿を見て安堵したの胸には、ぽっかりと大きな穴が開いているようだった。は無免の手の甲をひと撫でして、手を離した。もうやめよう。彼の側にいることを。そうすればきっといつか、苦しみは消えるはずだから。

の心は穏やかというよりかは、無のまま静まり返っていた。そのままぼうっとする頭で無免を見続けていると、無免の瞼が震えて、ゆっくりと開いた。
無免はまぶしそうな顔で緩慢に瞬きをすると、の方に顔を向けた。眼鏡がないせいなのか、それとも寝起きだからかなのか、無免の目は茫洋とかすんでいる。

「……気がついた?」

喉から震える声を出して、は極めて平静に努めようとした。
無免に見えているかはわからないが、口角を持ち上げて笑顔を作る。無免が何かを言おうとして口を開閉させたが、喉が渇いているのか、音はなかった。だからは、そのまま言葉を続けた。

「ねえ、無免ライダー。私ね、あなたが元気になったら、もうあの家を出て行こうと思う。……ホラ、さすがにこの年になって、自立してないのは駄目でしょ? アルバイトでためたお金があるから、部屋を借りて、ちゃんと一人暮らしするの」

まるでさも、自分が活力に溢れているかのように、はトーンを上げて話した。無免がわずかに眉間にしわを寄せて何かを言おうとしているのに気がついて、はふっと言葉を止めた。わずかに聞こえる呼吸は、懐疑の色を含んでいる。

は泣きそうになった。無免の姿に、追いやった激しい気持ちがあふれそうになった。鼻の奥がツンとする。
無免の顔を見ていられなくなって、は床に目線を向けた。

「別にね、無免ライダーのことが嫌いになったわけじゃないから! 安心して。怪我したって聞いたときもね、びっくりしちゃって、」

しまった、とは思った。脳裏によぎる光景。電話の音、帰ってこない無免、蓋をしたままの味噌汁、激しい雨の音、――無免の、怪我を聞いた瞬間。の唇がわななく。
は頭が真っ白になった。壊れた機械のように、途切れ途切れの言葉だけが宙を舞う。

「本当に、恐くてね、すごく、ドキドキして、慌てて、病院まで来て、恐くて、怪我した無免ライダーを見たら私、私は……」

言葉が続かなくなった。私は、何? 激しい心臓の音がを揺さぶる。

おもむろに、の腕に何かがかすめた。いっそう心臓が跳ねて、は思わず無免を見た。ベッドから伸びる無免の手がの腕に触れている。無免は力ない笑みを浮かべていて、そこではカッとなった。目の奥がどんどん熱くなっていく。
無免の手を押しやって、は歯を食いしばった。身体は熱いのに、飛び出す言葉はかすれそうなほど小さかった。

「ねえ、私、す、ごく、辛かったんだよ。も、もし、もう、もし、かえってこなかったら、って。もうやだよ、私、辛いよ。いっつも辛いばっかで……無免の側にいるの、つらい……」

ぽたぽたと涙が溢れる。――もういい。私は、もう、側にいるのも、やめよう。
は息を吸い込んだ。

ずっとずっと、胸の奥にしまいこんでいた気持ち。恋は、勝手でわがままだ。

「私は、あなたのこと、どんどん好きになっていくのに」

つらいよ。そういって、は病室を走って出て行った。さよならも、またねもなかった。





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無免ライダーには、「この世で一番大切だ」と声を大にして言える人がいる。世の中の平和を守ることが彼の誇りだったが、それとは別の場所で、彼はのことをとても大切に思っていた。

絶対ににはいえないけれど、と無免は思う。はヒーローとしての自分を尊敬しているから、彼女に自分の気持ちを伝えることは難しいだろうと思っていた。

しかし無免はこうも思っていた。いつかはに、たとえと恋人同士になれなくても、好きだといいたいと。

を好きな気持ちは、日に日に風船のようにふくらみ、今にもはちきれそうだった。のふとした一挙一動に嬉しくなったり悲しくなったりして、年甲斐もなくこんなに浮かれている、と無免は少し恥ずかしい気持ちにもなった。
彼女のことを思うと、驚くほど力がみなぎってくるのはなぜだろう。無免ライダーは時々ふと、そう思うのだった。

敵にやられた時、脳裏に浮かんだのはのはにかむ笑顔だった。痛みで意識が消えて、一度おそらく病院でだろう、意識が浮上し、そして再び沈んだ時、無免ライダーは夢を見た。懐かしい夢だった。
彼女と出会った日のこと、家族になったこと、の顔が生き生きしていき、まばゆいばかりの笑顔が溢れていくさま、無免ライダーはとても心地よい気分でいた。

――目が覚めたら、と出かけたい。それから、好きだと言おう。

夢の中ではあったが、堅い意志が無免の中には芽生えていた。不思議と、恐れはなかった。
ふとぷつりと夢が途切れて、無免は瞼をあけた。薄暗い天井が目に入って、右側に顔を傾ける。がいた。

はまるで出会った頃のように、空虚な、悲しそうな顔をしていた。眼鏡がないのでぼんやりしていたが、無免にはの表情が鮮明にわかるようだった。やせ我慢なのか笑おうとするに、無免は何かを言おうとしたが、声が出なかった。戸惑う無免をよそに、は何か焦っているかのように口を開いた。

突然一人暮らしをすると言い出したに、無免は思わず怪訝な顔をしてしまった。自分が眠っている間に、何かあったのだろうか。
無免の様子を無視するように目線をそらしたに、無免は少しだけショックを受けた。

しかし話していくうちに、の様子がどんどんとおかしくなっていった。ついには口を閉ざしたに、無免はそっと手を伸ばした。

自分はここにいる。安心して、ゆっくり話して欲しい。そういうつもりで伸ばした無免の手は、意に反して、にそっと拒まれてしまった。

は見ていてかわいそうなほど震えながら、涙混じりに言葉をつむいでいる。今までに見たことのないの姿に、無免は動揺していた。しまいには側にいるのが辛いといわれ、胸の奥がずきんと痛んだ。
こんなに好きなのに、迷惑だったのだろうか。そう思うと、無免は暗い気持ちに引きずり込まれそうになった。

しかし続くの言葉に、無免は思わず硬直した。

「私は、あなたのこと、どんどん好きになっていくのに」

――えっ?

無免が聞き返す間もなく、は病室を出て行ってしまった。

衝撃的な言葉に、ただの言葉を甘受するだけだった無免の頭が覚醒する。ざわざわと落ち着かない気持ちで、思わず無免は上半身を起こす。傷が痛んで、「いって」と思わず声を上げた。やっと出た言葉らしい言葉は腑抜けた響きだった。

――いや、痛みはどうでもいい。を追わなければ!

無免はうおお、と咆哮しながらベッドから勢いよく飛び降りたつもりだったが、病み上がりのせいか、ブリキ人形のようにおぼつかない動きであった。地に足をつけると、少しだけふわふわした。病室の隅にあるスリッパを履いて、無免は今持てるだけの力で病室を飛び出した。

幸いなことにというべきか、廊下には誰もいなかった。受付の看護師も余所見をしている。神に祝福でもされているのかというほどの運のつき具合であったが、無免には関係なかった。たとえ止める者がいたとしても、無免は無理やり突き進んだに違いない。

得意の自転車は、腕の怪我で乗ることができなかった。スリッパをパタパタ鳴らして、無免は長距離走のラストのようによろよろと走る。無免の全身は燃えるように熱かった。

いつでも無免は、がむしゃらに生きてきた。自分の信じる正義のため、たとえ自分がどんなに弱いヒーローであったとしても。
無免は自分の心、信じるものを、捻じ曲げたりしなかった。

に言わなくてはいけない。「どんどん好きになっていくのに」と言われた時、本当はもう少し余裕があったら、言うつもりだった。ああそうだ、彼女に言わなくては。自分のほうこそ、君のことがどんどん好きになっているのだと。

まっすぐな無免の気持ちが、鋭い矢のようにのもとへと足を向かわせた。
見慣れた背中が放心しながら歩いているのを見つけて、無免はその腕を掴んだ。

「きゃあ! えっ、あ、えっ!?」

無免はぜいぜいと息を切らしていた。たいした距離ではなかったが、もう何分も全力で走り続けたような気分だった。
息が上がって、思うように声が出ないことに気付き、もどかしくなった無免は未だ戸惑うを強い力で抱きしめた。

――伝われ、伝わってくれ!

無免の心にあった風船が割れた。を好きだという気持ちがどんどん溢れてくる。もずっとそうだったのだろうか。今、の心にも、自分を好いてくれているという気持ちが溢れているのだろうか。それなら、それは、とても幸せなことだ。

「オレも、好きだ!」

力任せに喉から叫んだので、おかしな抑揚がついてはいたが、無免ははっきりと自分の心を伝えた。
腕の中にあるの身体がぶる、と震える。

「そんな、だって、」

まごつくに言葉をかけようとしたが、渾身のシャウトがきいたらしく、むせてしまった。代わりにぎゅうぎゅうと一層力をこめて抱きしめる。
そうしていると、の強張りがゆっくりと解けていった。その代わりに、鼻をすする音が聞こえてくる。

「ず、っと、め、迷惑だと、思ってて、いわな、いで、いようって」

――ああ、わかってるさ。

ぽんぽんと、右手で彼女の背中を叩く。

「ずっ、と……辛かったの〜! 私ばっかり、好きで、自分の気持ちに振り回されて、ううう……」

あの時助けた女の子が、たった数年でどんどん大人びていくなと思っていたが違ったらしい。まるで子どものように、落ち着きなく、大声で泣いている。
けれども、2人の心の距離が、触れ合えそうなほど近くにあるように感じられた。

身体を離して、の顔を覗き込む。やはりまだ泣いたままだった。それでも、さっき病室で見た虚ろな姿よりも、ずっといい。
無免は、んん、と喉を整える。

「嬉しく、ない?」

やはり抑揚はおかしなところについていて、無免は思わず自分でも笑いそうになった。はその言葉に目を見開くと、子どもっぽいしぐさでぶんぶんと頭を振った。

「う、嬉しいよ!」

そういって、はくしゃくしゃの泣き顔のまま笑うと、無免に抱きついた。
無免もの背中に手を回すと、少し笑いながら空を仰いだ。

――雨も止んだし、今日はいい天気だ。

無免の頭の中では、たった今見た、泣き顔のまま幸せそうに笑うの姿があった。
このまま2人で、ずっとお互いが好きなままいれたらいいなと、無免ライダーは空のかなたに祈ったのだった。





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「あいててて……」
「だ、大丈夫?」
「ああ、うん……ごめん」
「もう! 病み上がりなのに勝手に病院を抜け出すからですよ! いったい何をしたんですか!」
「「……あはは」」