「おい、起きろ!」

教師にぽかん、と丸めた教科書で頭をはたかれて、心操人使の隣に座るはのろのろと顔をあげた。
くるくるしたの黒髪には、似つかわしくない1対のいかつい角がぐるりと渦を巻いている。腑抜けた顔でへらへらと笑いながら「すんません」と謝るに、心操は呆れてため息をついた。2年で同じクラスになってからというもの、はいつも自分の席でぐうぐうと寝こけている。

授業が再開してしばらくすると、の瞼がくっついて、また穏やかな寝息が聞こえてきた。そうして今日も授業が終わった。











放課後、帰ろうとした心操を引きとめる者がいた。同じ委員会に所属するクラスメイトの女子だった。二言三言言葉を交わして、少し溜めてから、彼女はおそるおそるといったように「心操くんて個性、洗脳…なんだよね?」と言った。

またか、と心操は内心毒づく。

「まぁ…」
「えー、なんでもできちゃうね。ヤバい。お金持ちになれるじゃん」

クラスメイトが恐がっているのか茶化しているのかわからない声音でそういう。
大半が小学校から持ち上がって、中学2年にもなるというのに、この手の発言をわざわざしてくる奴は跡を絶たなかった。

正直に「そういうことを言われるのは嫌だ」といえたらどれだけいいだろう。だがそう返したところで「マジになんなよ」と言われて煙たがられるのがオチだ。
だから心操はあいまいな笑みで「あー、ね」と返すことしかできない。

去っていくクラスメイトの背中を見て、心操はこっそりため息をついた。

「あーいうの、ヤダね」

ふいに横から飛んできた声に、心操は思わずびくついた。
驚いて振り向けば、いつの間にか起きていたらしいが頬杖をついていた。

「…」
「深い意図はなくてもムカつく」

眠たげで黒々とした瞳は、輪の中へ戻っていったクラスメイトの方を向いている。
その瞳に底知れなさを感じて、心操は思わず怪訝な顔をした。











その日の真夜中、心操は悪い夢にうなされた。

「お前なんかヒーローになれない」といわれて、本当にヴィランになってしまう夢だった。多感な時期に受ける影響というのは、他の中学生に比べて大人びている心操でも変わらないらしい。
心操の心はヴィランになることへ抗っているというのに、夢の中では思うように体が動かせない。まるで誰かに操られているようだった。

「!」

自分を避けていく民衆の中で、誰かが立ち止まって心操の方を見ている。一対の渦巻く角。黒々とした瞳が心操の瞳とかち合った。

「――心操は、ヒーローだよ。みんな知らないの?」

くぐもった夢の中で、落ち着いた低音がよく響いた。

するとその言葉に、人々はあっさりと「そうだ、ヒーローだ」「ヒーロー!バンザイ!」と意見を覆し始めた。
心操はいつのまにかヒーローコスチュームを纏い、ヒーローとして人々に取り囲まれた。

夢の中で立て続けに起こる不条理な出来事に困惑しながらも、人々から向けられる羨望のまなざしに、心操は不覚にも泣きそうになった。
憧れの実現。自分を“ヴィラン向き”だと見なさない人々。焦りは消え、呼吸が楽になっていく。ぐるりと取り囲む人垣から離れたところで、あの発言をした人物――が穏やかな笑みを携えている。

「んん…、?」

夢はそこで終わった。
背中がうっすら汗ばんで、衣服が肌に張り付いていたが、気分はそれほど悪くなかった。

心操は上体を起こして、すでに霞みつつある夢の内容を思い返す。
なぜがでてきたのだろう。ベッドの上で心操は首をかしげた。

“あーいうの、ヤダね”

「…あほくさ」

まさかが、あんな偽善者めいた言葉を言うとは思わなかったからだろうか。思えばはずっと寝ていて、今までろくに話したこともない。どんな人物なのかもさっぱり分からない。
それでもあの時、ほんの一瞬、心操は救われた気がした。

それからというもの、そんな夢を見ることが増えて、心操は昼間ぼーっと考え事をすることが多くなった。
加えて、夢に度々が出てくるせいで、心操は少しずつだがと話すようになった。

は心操と話すとき絶対に構えない。心操の個性のしかけを知っていても、は心操の問いかけにすぐ応える。
久々に気兼ねなく話せる他人に、心操は表には出さずとも安心感を覚えていた。その内、2人はじわじわと、親友とも呼べる関係になっていった。

3年に上がって、心操は雄英を受験することを決意した。もちろん科はヒーロー科だ。心操とすっかり仲良くなったも「がんばれ」と言って背中を押してくれた。

しかし、受験当日課された課題に、心操は現実に打ちのめされることとなる。











体育祭での出番が終わって、心操は悔しいような、それでもすっとしたような不思議な気持ちでいた。
ただ、未だに感情の整理がつかず、クラスの席を離れて1人で静かな場所にいた。

突然携帯のバイブが鳴り響いて、心操は舌打ちしながら画面を見た。だが、その画面に表示された名前を見て、心操は思わず目を見開いた。

――

都内で難関と言われる進学校の普通科へ入学したとは、しばらく連絡を取っていなかった。
かわしたメッセージのやり取りは、春先の「雄英入学おめでとう。お互いがんばろうぜ」というの言葉で終わっている。

「…」

もテレビを見ていたのだろうか。自分が負けたところも。出ようか出まいか迷って、結局心操は画面をタップし、携帯を耳に当てた。

《もしもし?人使?》

の低い声が心操の鼓膜を揺さぶると、催眠のように気持ちが落ち着いていく。
ああ、俺は負けたんだ――その事実が、心操の体中にほろ苦く染み渡った。

は《テレビ見てた、おつかれ》というと、小さく笑った。

《人使すげーね》
「…なにが」
《きっとヒーローになれるよ。中学みたいなところじゃないもん。人使の能力を、皆ヒーロー向きだって言ってくれるだろ》

はいつになく饒舌だった。の言葉は、近いところに住んでいるはずなのに、どこか遠い存在に感じられるような響きを持っていた。
いてもたってもいられない気分になって、心操はの言葉をさえぎった。

「おい」
《?》
「明日、暇か」
《え、ああ、…うん》

珍しく戸惑っているらしいの様子が電話口からでも分かった。

「明日お前の家に行くから、待ってろよな」
《なん、》

なんで、という言葉を聞く前に、心操は電話を切った。











翌日。
体育祭で思ったより気を張り詰めていたせいか、心操はとても疲れていた。どんなに寝てもなかなか消えない眠気と戦いながら、言い出したのは自分だからと心操は頬をはたいての家に向かった。
中学時代に何度か訪ねたことがあるの家に到着してチャイムを鳴らすと、数秒置いて「はーい」とあの間の抜けた声がした。

「久し振り、人使」
「久し振り」

扉を開けたは、最後に見たときと変わらない風貌のままだった。
靴を脱いで上がり、よくよくを見てみると、学校から帰ってきたばかりなのか制服を着たままだった。親はまだ仕事中らしい。

廊下を進みながら、は嬉しそうに口を開いた。

「とりあえず、ヒーローへの第一歩おめでとう」
「…ああ」
「ケーキいる?買ってこようか」
「いい。どうせ負けたんだからな」
「そんなこと言うなよ」

の部屋は相変わらず殺風景で、少し大きいベッドと参考書だらけの勉強机くらいしか目だったものがなかった。心操はベッドを背もたれにして床に座る。はブレザーを脱いでネクタイを取り去ると、心操に向かい合うように床に座った。

「…えと、なんか用だった?」
「用がなきゃ来ちゃいけないのかよ」

本当に、特に用事はなかった。ただ無性に、と会って話がしたい気分だったのだ。

「…んーん。おれに会いに来てくれて、うれしーよ」

眠たげなたれ目を緩ませて、はほんのりと笑った。

話題を探す中で、心操はふと、ずっと気になっていたことを聞こうと考えた。
の個性のことだ。何度聞いても、は自分の個性をはぐらかして教えてくれなかった。中学校の教師にでも聞けばきっとすぐに分かったのだろうが、仮にも友人同士なのだから、本人の口から聞きたかった。

「そういえば、お前の個性はなんなんだ?いい加減教えろよ」

中学の時と同じなら、は「え〜?…ヒツジ」と言って即寝た振りをしていた。それがお決まりだったのだ。
しかし、今日のは違った。

「…」

ふう、と息を吐き出すと、は観念したようにぽつりぽつりと語った。

「…人の夢に入れる。そんで、夢を操れる」

「幼稚園でさ、ずっと遊んでたくて、お昼寝の時間はみんなの夢に入り込んで、みんなと遊んでた。でも、個性使うと睡眠不足になるからさ、日がな寝不足みたいな子どもで、ずうっと寝てたよ。でもその割りに誰とでも仲がよかったから、幼稚園の先生は変に思ってたみたい」

ぺらぺらと語るの正面で、心操は硬直していた。
あの日見た夢に出てきた。内容はもうほとんど覚えていないが、だけが異色だったから、よく覚えている。

「夢の中って皆無防備でさ。基本的に個性は使えないんだ。俺は、なんでも作り出せるし、夢の内容も変えられる。俺の独擅場っていうか…俺が何しようと、絶対にバレないし」

その言葉に、心操は既視感を覚えた。
がじっと心操を見つめる。時々見せる、何も読み取れないあの瞳だ。

「…こわい?」
「…」

その言葉の意味するところを、心操はすぐに理解した。
なんと返すべきか迷って、心操はそっと瞳を閉じた。
瞼を下ろしてしまえば簡単なもので、心操は疲労からすぐに眠りについた。











「…まさか、目の前で寝ちゃうとは」
「…」

瞳を開ければ、少し離れた場所でがたたずんでいた。
の作った夢の中なのだろうか、心操とはなんの関係もない様々なものがふわふわと無重力に浮いている。心操の目の前を小さな羊のぬいぐるみが横切った。

「あの日、お前は俺の夢にでてきたよな」
「…」

は少し俯いたまま何も言わない。無言の肯定だった。

あの日、が心操を庇うような言葉を言ったのは、決して偽善ではなかったのだ。
だから、心操の悪夢も、よい夢へと変えてくれた。心操が覚えている限りでは、何度も。

あの夢が心操の心を守った。例え無謀であろうとも、己の夢に挑めと背中を押してくれた。

「どうして、」
「人使のこと、ずっと前から知ってたよ。噂が流れてくるからさあ」

心操の言葉をさえぎるように、は口を開いた。

「――だっておれもヴィラン向きだもんね」

へら、とが笑ってそう言った。
心操は言葉に詰まった。だが、心の中で違う、と叫んだ。

なんでもないヤツが、ただのクラスメイトの、他人の夢に何度もおせっかいするものか――そこまで考えて、心操ははたと気づいた。

「どうして俺なんかのためにそこまでする?」
「…俺なんか、なんていうなよな。心操はおれの大事な…人だよ」

は目を伏せて悲しそうに笑った。その深い表情に気を取られて、心操は答えをはぐらかされたのに気がつかなかった。
心操の心臓はどくどくとうるさかった。のことを知っているつもりで、知らなかったことに気づかされた。目の前がピントがずれたようにぼんやりとしていく。夢の中から覚めるのだろう。

「おれ、気持ちわるいでしょ。ごめんね、勝手に夢の中入って。もうはいんないから」

が遠くへ霞んでいく。電話の時と同じ焦燥感が心操を襲った。

「待て、!」

心操は咄嗟にの手首を掴んだ。ほわほわとした見た目とは裏腹に、やせぎすの、細い手首だった。が息を呑む音がする。
それでも心操は、夢の中を迷子のように彷徨い続けるを、手放したくないと思った。

「…人使、」

泣きそうなの声が、心操のホワイトアウトした視界に響く。

いつか心操がに助けられたように、心操はを助けたいと思った。
この手を離してはいけない。人々を導く“ヒーロー”なら、きっとそうするはずだから。