「あなたは……誰かに復讐を望むのか?」

――その人はただひとこと、「いいえ」、と。










わあわあと、短刀らが庭で遊んでいる声が遠くから聞こえてくる。締め切った障子に差し込む日光はやわらかく、そして暖かい。
そんな穏やかな昼下がりに、険しい顔をして――常からそんな顔ではあるのだが――傍に控える小夜左文字を見て、は匙を口に運ぶのをやめて微笑んだ。

「小夜も遊んできていいよ」
「あなたの器を下げないといけない」
「置いておけばいいよ。後で私が持って行きます」

有無を言わせないの口調に、小夜は苦い顔をした。
自分が“あの”短刀たちと“楽しく”遊べると思っているのか――そう顔に書いてある小夜に、は意味ありげな笑みを浮かべる。

椀に入った粥の最後の一口を咀嚼してのみこむと、は小夜の頭を撫でた。
こういう時、小夜はどうしたらいいかわからなくなる。なんとなくむずがゆい気持ちになって、しかしが主君である手前、その手のひらを振り払うこともできなかった。

「大丈夫。小夜はやさしいから、皆きっと邪険にはしない。私も、小夜がよくしてくれるから、嬉しくって元気も出るもの」
「あなたは、現に臥せっているけど。それに、嬉しいだけで、体調がよくなるわけがない」
「……そうかな。私は、小夜の顔を見れて元気百倍だけれど」

本当に不思議そうな顔でがそう言うので、小夜はたまらずの手から椀をひったくって立ち上がった。
そしてそのまま障子の隙間から猫のように身体を滑らせ、小走りで去ってしまった。その背中に、はため息を1つついた。




小夜左文字は復讐にのみ生きてきた。

理想や夢はまやかしで、現実がいかにむごいものか。
そしてそれがいつなんどき寝首を掻きにくるのか。

それに抗い打ちのめす手段の1つが、「復讐」だった。

小夜の存在は、復讐を母胎にして確立されている。
復讐を望まない人間などいない。口ではなんと言おうと、人々は心の奥底で復讐を求めずにはいられないのだから――。










小夜と入れ違いで、宗三左文字がやってきた。

「どうです、具合は」
「とてもいいよ。小夜がいたから」

にこにこと笑うを馬鹿にするように、宗三は鼻で笑う。
そういうちょっとしたひねたしぐさは、小夜に似ているとは思った。

宗三はずかずかとの部屋の片隅に置かれている鳥かごへと近寄った。
中には小さな、黄色のカナリヤがいる。宗三は皮肉げな笑みを浮かべた。

「あなたも籠の中に囚われて…、さぞお辛いでしょうね」
「でもいまさら離しても、それはそれで無責任だと思うな」
「あなたのことですよ」

振り返った宗三の呆れた顔に「あらら」とはおどけて見せた。

「いいじゃない、自分が求められているだけ」
「求められるだけのそんな人生、つまらないですね」
「でも…きっと、自由になったら、誰かに求められたいって思うんじゃないかな」

は目を伏せて、自分の腕を撫でた。
病気がちなの腕には脂肪も、もちろん筋力も不足している。頼りない手だ、とは思った。

「ただあるだけ。それは、私達にとっては、とても難しくて、ほしいものだよ。…私にできることは少ないから。今こうして審神者として求められていること、使われていること…幸せに思うよ」
「それでは、せいぜい、長くこき使われていてください」
「はいはい。…それに、この籠はびっくり箱みたいで面白いよ。毎日新鮮で、驚きいっぱいで、楽しい」
「あの鶴のようなことを言わないでください」

ぴしゃり、と宗三に言われて、は思わず声をあげて笑った。










縁側に腰掛け、童謡を口ずさむを見つけて、最初の刀で近侍の歌仙兼定はあきれたように眉を下げた。
歌詞では、歌を忘れて鳴かないカナリヤを酷いやり方でどう鳴かせるか、などと歌っている。

3番目まで歌って、はようやく歌仙の方を向いた。

「何度聞いても、その歌はひどいね」
「うふふ」

でもすきなの、とが呟く。やれやれと歌仙が横に座り、少し黙ってからこう言った。

「でも4つめの歌詞はうつくしいと思うよ」

の横顔は、幼いつくりの割りには哀愁を帯びている。大人びているというよりも、もういくつも苦労を重ねてしまった老人のように弱弱しい。かろうじて瞳だけが、遠い夜空の星を見上げるようにまっすぐで強い。そんな主の瞳が、歌仙は好きだった。
小さな身体に生き急いで詰め込まれた人生は、どこか“あれ”に似ている。

「君は、小夜に似ているね」

がきょとんとして歌仙を見つめた。少しだけあどけない表情に、歌仙は小さく笑う。

「ほんと? どこが似てる?」
「無茶しがちなところ、とか」
「あらら」
「さ、もう寝床に戻るんだ。体に障るだろう」





夕餉時、当番の歌仙と小夜は、もくもくと準備を進めているところだった。
そこへ、遠くからばたばたと騒がしい足音が聞こえてきた。


「歌仙! 主が!」

真っ青な顔をして厨に飛び込んできた大和守安定に、歌仙と小夜は同時に振り返った。
歌仙はその顔色に事態を察知したのか、冷静に「どうした」と問い返す。しかし一刻を争う事態に、安定は少し怒ったようにまくし立てた。

「主の様子が変なんだ! すぐに医者を呼ぼう! 政府に頼めば一瞬だろ!?」
「医者は呼ばない。そう決めている」

そうはねつけた歌仙に、安定も小夜も目を見開いた。

「そんな! 見殺しじゃないか、」

見殺し、という言葉に、反射的に小夜の手がこわばった。

「違う、の意思だ」

の部屋に向かいながら、騒ぎを聞きつけた刀剣たちが次々と集まってきた。
よくわからない力に突き動かされるように、小夜は呆然としたまま、彼らの後ろをついていった。

「主!」

近侍の歌仙が真っ先にへ駆け寄った。周りを取り巻く刀剣たちがざわざわと騒がしい。
荒れたの呼吸は、騒々しい中に消えてしまった。

「小夜」と歌仙が、ふいに小夜の名前を呼んだ。輪から離れて突っ立っていた小夜はびくりと体を震わせた。
刀剣たちの瞳が、一斉に小夜を向く。

「主が呼んでいる」

そういわれて、小夜はふらふらと近寄った。悲痛な顔をした刀剣たちは皆、幼い小夜のために道を空ける。
ようやく見えたの顔に、小夜は全身から力が抜けそうになった。白っぽくなった唇から呼吸が漏れ、顔には汗が滲んでいる。いつも凛とした瞳はいまや陽炎のように霞んでしまっていた。これは本当に現実なのだろうか。

黙ったままの小夜に、が手を伸ばした。「小夜、手を握ってやってくれ」歌仙が懇願するように囁いた。

小夜の腕がぶるぶると震えた。
喉が渇き、の手を掴むのに何十分もかけたような気がした。その手を掴めばふっと消えてしまいそうで、恐ろしかった。

握った手は枯れ枝のように細く、つめたかった。

――こんなにした奴は、誰だ。

小夜の内側に燃え上がるような怒りが瞬時に湧き、――しかし、すぐにスッと血の気が引いて、顔色が真っ青になった。
歌仙が困惑した様子で小夜を呼ぶが、その音は遠鳴りだった。

小夜は気づいてしまった。
医者でもない自分は酷く無力な存在で、のためには、何ひとつできやしないのだ。

(復讐なんて、無駄だもの)

あの日が言った本当の意味がわかる。
が死ねば、誰に復讐したらいい? を産んだ親か? もっと別の人間か? いや違う。「がいなくなること」に変わりはない。結果に変わりは、ない。やり場のない気持ちが、小夜の小さい体の中を駆け巡る。

復讐など無意味だった。たとえそれが、小夜が心から望んだものであったとしても。

の命の灯火は、もうまもなく消えるだろう。
月明かりが小夜の頼りない背中を照らす。

湧き上がる気持ちは、悲しみは、確かにへの親愛だった。
小夜は、“誰かの復讐のためのただの道具”のままではいられなかった。

――小夜。小夜。
脳裏に浮かんでは消えるの笑顔は、小夜の顔を醜くゆがませた。熱い涙がほとばしり、心の臓が酷く痛む。



いやだ。いなくならないで。



小夜は咄嗟に、手の中にあるの手を握り締めた。

「ねえ、あなたは、――名前を、呼んだよ。だから、元気になってよ!」
「小夜!」
!ねえ!」

押しとどめる歌仙の腕を振り払い、小夜は叫んだ。どんなに強く握ろうと、その手が握り返されることはなかった。
必死な小夜の顔を見ても、はどこか落ち着き払った様子で、苦しげな呼吸を繰り返すだけだった。

この結末を、はずっと前から覚悟していた。
だからこそ、小夜が自分の言ったことを覚えていてくれたのに、は満足した。引きつる顔を、唇を、はなんとか引き上げた。

「嬉しい…幸せ…元気になった…」
! ……」

の魂がうす月になっていくのがわかった。それでも小夜は、名前を呼んだ。

…ねえ、ずっと、呼んでるよ……」
「…」

は眠るように瞼を伏せて、そっと微笑んだ。

薄れていく意識の中で、は、しあわせだ、と本当に思った。
こんなに自分を大切にしてくれて、やっぱり、小夜は優しいと。決して復讐のみにしか生きられない子ではないと。最後に見えた希望の光は、死の淵に立つを酷く勇気付けた。

さあ、行こう。

ああ今日は、美しい月が出ている。
カナリヤが、忘れた歌を思い出し、歌っている――

「うん…そうして…ひとばんじゅう…小夜の声が…」

の息が静かに止まった。
それでも小夜は、の名前を呼び続けた。





の葬儀は、身内だけで行われた。
の父だと称する男が、刀剣男士たちによそよそしい挨拶をしたほかは、何もなかった。

主を失った本丸で、刀剣たちは荷物を整理していた。
の持ち物はもともと少ないし、それを片付けて、刀剣たちはどこか別の本丸へと移ることになっていた。

本丸で過ごす最後の晩、小夜は縁側に腰掛けて夜空を眺めていた。
横に並ぶのは、の飼っていたカナリヤの入った籠だ。

“最後に カナリヤの世話は、小夜にお願いします”

生前、が歌仙に託した遺書にも似た手紙は、そういって締めくくられていた。
指でこすれば消えてしまいそうなほど薄い筆跡に、小夜はかすかなぬくもりを求めて、一度だけ指先を滑らせた。

「嘆けとて、月やは物を思はするか…こち顔なる我が涙かなってところかな」
「……歌仙」

そんなんじゃない、と小夜は顔を背けた。

2人でそうしていると、江雪と宗三の2人がやってきた。
歌仙と二言三言交わしてから、宗三は弟の小さな背中を見つめた。

「しかし政府も冷たいですね。僕たちは参列できないだなんて」
「仕方ありません。人の世には人の子の定めがあるのです…死に顔を看取れただけでも…よしとしましょう」

江雪は祈るように夜空を仰いだ。
小夜の横に宗三が座り、傷を分かち合うように小夜の小さな肩に身を寄せた。慰めるように握られた手を、小夜は黙って少しだけ握り返した。

、僕は忘れない。あなたが、教えてくれたことを…)

小夜左文字は、これからも誰かの復讐のために生きていくだろう。
けれども、これからの自分は、誰かを大切にできる短刀でもあるはずだと。

小夜の心にそっと寄り添うように、銀色の星屑が一筋夜空を駆けた。