海の見える町で生まれたなら
若き日のロバート・E・O・スピードワゴンは、生きる意味を探していた。
両親が早くに亡くなって、ただ毎日心の荒んだ日々を送り、喧嘩に明け暮れては、教師も、周りの大人も、誰のことも尊敬してはいなかった。その日も曇天の中、喧嘩帰りで、スピードワゴンは生きることについて自問自答していた。やがて雨が降り出したが、スピードワゴンは気にせずに歩き続けた。自分のものか他人のものかわからない血を雨で洗い流し、彷徨う姿は獣と変わらなかった。
自分はいったい何のために生きているのか? 誰かに喧嘩で勝っても、決して心が満たされるわけではない。
ドブネズミのように生きるくらいならいっそ死んだほうがましだ。
最近はよくそう考えるようになった。静かな嵐のようなスピードワゴンの心には、ひっそりと孤独があった。生きていくことへの孤独と、恐怖があった。
一層雨音が酷くなったころ、つんざくような悲鳴が、スピードワゴンの鼓膜を揺さぶった。ごうごうと音を立てる雨の中、確かにそれは強い響きを持っていた。スピードワゴンは眉を顰めてその音のほうへと近づいた。
「! ……これァ…」
犬猫でも捨てるように、ダンボールの中に入っていたのは、小さな赤ん坊であった。雨に目を覚ましたのか、恐ろしい勢いで泣いている。
その泣き声に、スピードワゴンは酷く心を打たれた。赤ん坊はまるで、自ら発光しているかのようにスピードワゴンには見えた。
なんて生命力に満ち溢れた声だろう? 自分とは大違いだ。
やがて彼の中の、幼い心が共鳴して、スピードワゴンは赤ん坊を抱えたまま酷く泣き叫んだ。自分も生きていたい。しかし、生きている目的がわからないのだ。
スピードワゴンがふと気付くと、赤ん坊は驚いたのかしゃくりあげるように泣き止み始めていた。
スピードワゴンは自身の制服で赤ん坊をサッとくるむと、慌てて駆け出した。赤ん坊なのだから身体は弱い。ほうっておいたら死んでしまう。
白くけぶる雨の中、スピードワゴンはがむしゃらに走った。いつも通る道、その途中にある児童擁護施設「ほしのいえ」を見つけて、転がるように飛び込んだ。
スピードワゴンに気付いた女性職員のひとりが驚いて小さな悲鳴を上げた。スピードワゴンは普通の顔つきではなかったし、何より顔には大きな切り傷がひとつ走っていた。それでも彼は必死に、「助けてくれ」と懇願した。
やがて困惑した他の職員に連れられて、施設の院長であるジョージ・ジョースターがやってきた。彼はスピードワゴンの抱えている赤ん坊を見て目を見開いたが、毅然とした態度で歩み寄ると、スピードワゴンからゆっくりと赤ん坊を取り上げた。赤ん坊は少しくったりしていて、しゃくりあげてはいたが声もなかった。
「この子はここではいけない。すぐに救急車を呼ぼう」
不安そうな顔をしたままのスピードワゴンを見やり、ジョージは赤ん坊を職員に預けると、「大丈夫だ」と一言言った。
女性の職員がわっと群がって、赤ん坊を暖めようとばたばたしだした。
それを不安そうに見やるスピードワゴンに振り返って、ジョージは視線を合わせると、力強くうなづいた。
「ありがとう。君のお陰で、あの子は助かるんだ。私もあの子が元気になったら、きっと大事に育てよう。そうしたら君も会いに来るといい」
スピードワゴンはその時初めて人を尊敬した。彼は本物の、尊敬すべき紳士であると、心が打ち震えた。
「ほしのいえ」の外では、激しい雨がやみ始めて、静かな空気をわずかに救急車のサイレンが振動させ始めた。雲間の切れ間から金色のひかりが射し、植物が垂れ下がった首を一様に空へ向け始めた。
それから赤ん坊が元気いっぱいになる頃、スピードワゴンの顔つきは少しずつ変わってきていた。昔のように、ただがむしゃらに牙をむく存在ではなく、強い信念を持つ大人の男へと顔つきが変貌した。
やがて彼を慕うものが現れるようになり、スピードワゴンの周りはにぎやかになった。孤独は少しずつ消えていき、そして何より、生きる目的を見出した。
「なあ、ジョースターさん。おれはいつか、この子を迎えに行くよ」
学生服を着たスピードワゴンは、隣にいるジョージにそうつぶやいた。
病院にやってきたスピードワゴンは、すやすやと眠っている赤ん坊を見て、顔を綻ばせた。
ジョージは風のうわさで、スピードワゴンが品行方正とはいわないまでも、至極まっとうに生き始めたことを聞いていた。
「いつかおれは、大金持ちになって、ピカピカの車に乗ってさ。この子が知ってるようなでっかい会社の社長にでもなって。それでこの子を迎えに行って、思いっきり驚かせてやるんだ」
「それは何故だか、聞いてもいいかい」
スピードワゴンは、ふっと笑った。
「馬鹿みたいだろ。でも、この子はおれが生きる糧なんだって、あの日そう思ったんだ。あの日、この子が、おれに生きろと、そう言った気がするんだ。奇妙な、運命ってやつかな」
ジョージは笑わなかった。真剣にスピードワゴンの言葉を聞いていた。
スピードワゴンが太い指を差し出して小さな手のひらを触ると、赤ん坊は反射で指をきゅっと掴んだ。やわらかいが少し強い力で、あの雨の日の力強い泣き声が、スピードワゴンの耳の奥でこだました。
ジョージは片手を差し出した。その手を、スピードワゴンは不思議そうに見つめた。
「忘れてはいけないよ。人が大事にしなければならないのは、お金でも、ましてや名声でもないのだ。心だ。心が、一番大切なんだ。君が立派になって、あの子にいつか会おうとする心、それはあの子を愛する心だ…それをどうか忘れないでいてほしい」
スピードワゴンはその言葉に酷く心打たれた。やはりジョージは尊敬すべき紳士であるとスピードワゴンは確信した。この人のようになりたいとスピードワゴンは思った。それから、傷だらけだった手を差し出して、硬い握手を交わした。
日陰に生きてきたスピードワゴンと、太陽の下で本当の紳士として生きてきたジョージの手のひらは全く違っていた。けれども、その手のひらの燃えるような熱は、全く同じだった。
目と目で約束を交わし合うと、ジョージは気が付いたようにぱっと手を離した。
「そういえば君は、あの子の名前を知らなかったね」
「名前?」
「そうだ、あの子の服のポケットに、雨に濡れてはいたが、あの子の名前らしいものが書かれた紙が入っていたんだ。あの子の名前は――」
赤いランドセルを背負った少女が、勢いよくお辞儀をした。同時に、入れっぱなしの教科書とノートと筆箱が、大きな音を立てて少女の下がった頭を地面に引っ張った。
少女の目の前には、優しそうな夫婦が一組いた。その奥には、ワゴン車にもたれてこちらを見ている男性がもうひとりいて、少女は彼をじっと見つめた。
男性は少女の視線に気が付いて、古傷のついた顔をくしゃりとさせて笑った。それから近寄ってくると、手のひらを伸ばして、少女の小さな頭を撫でた。
手のひらは大きかったが、その力は優しく、しかしとても熱かった。ふと男性が、「やっと、迎えに来たぜ」とつぶやいたので、少女は首をかしげた。
彼の車には、「スピードワゴン財団」という文字と、車輪のマークが描かれていた。少女はその文字と車輪のマークが、小学校の募金箱に書かれていたことをぼんやり思い出して、ますます首をかしげた。
ロバート・E・O・スピードワゴンによって、は今も海の見えるこの町で生きている。