美しいあの背中
月日が過ぎ行くのは早いもので、仗助たちは晴れてこの春、私立ぶどうヶ丘高等学校に入学した。
残念ながら億泰とは仗助と違うクラスになってしまったが、それでも数年の付き合いがあったので、お互いにクラスを行き来した。
「億泰くん、よろしくお願いしますね」
小学校高学年ごろから何故かの口調には敬語が混ざり始め、今やもう全ての言葉が敬語であった。中学3年生から眼鏡をかけはじめたのもあり、の委員長然とした見た目はますます強くなった。
それでもやわらかい微笑みで手のひらを差し出されれば、のことはあんまりタイプではないし、もっと元気でかわいい子がいいなと思う億泰でさえも、ぽーっとしながら手のひらを浮かせたりはしてしまうのだ。
「お、おうよ! よろしくな」
「はい」
億泰は思う。が高校生になって、ぶどうヶ丘の制服に袖を通し、ますます綺麗になったと。決して華やかではないし、億泰の好みではないけれど、清涼な川のせせらぎが聞こえる森の中のように、静かな美しさがそこにあった。
億泰がと知り合ったのは、5年生の頃億泰が杜王第一小学校に転校してきてすぐだった。
その頃のは学校にも慣れて、親友である仗助とクラスが分かれていても、それなりにうまくやっていけるようになっていて、学級委員長をしていた。
は学級委員長だからとあれこれ億泰の世話を焼いたので、億泰は恥ずかしいやら嬉しいやら、複雑な気持ちでいっぱいだった。それまでは、女の子と接するような機会なんて、せいぜい女子軍団と喧嘩でもしている時くらいだったからだ。
からかわれることもあったので、億泰は少し困ってもいたが、はどこ吹く風といった感じで歯牙にもかけなかった。「私も転校してきた時大変だったから」と優しく言われた時なんか、なぜだか少し目がうるっとした。
それからを通して仗助とも仲良くなり、億泰と仗助は親友になった。
中学校の頃の億泰は、少しだけに素っ気無くなった。嬉しさよりも、周りにあれこれ言われる恥ずかしさが勝ったからだ。クラスも別になったので、ますます疎遠になった。
仗助は相変わらずと親しくしていたようだった。けれども億泰は少しだけ突っ張った態度でいた。仗助にも「どうしたんだよォ」と怪訝そうな顔をされたし、何よりは少し寂しそうだった。
の寂しそうな顔を見るたび、億泰は心の底から謝りたい気分になっていた。前のように仗助と3人で、バカ騒ぎをしたいとも思っていた。けれどもそんなことはできなかった。に会う時間が短くなればなるほど、以前のように楽しく過ごすことは不可能なように思われた。
そんな億泰の密かな日課は、中学生になって陸上部に入ったが走る姿を、教室からそっと眺めることだった。は足が速かったので、早々にレギュラーになっていた。仗助は喜んだし、も口数は少なかったが嬉しそうだった。億泰も心の中で万歳三唱をした。口では「よかったな」と言うだけだったが。
ポニーテールに髪をまとめて、風のように走っていくの後ろ姿は凛としていてかっこよかった。
そしてそんなの姿を見るたびに、億泰は心の中でごめんな、と呟いていた。
1年が過ぎ、2年の春も、夏も、そうして過ごし、町の銀杏はやがて優しい黄色になった。
ある日億泰がの練習を見届けて帰ろうとした時だった。
息を少しきらせて、汗を滲ませたが、玄関口に走ってやってきた。
つい先ほどまで見ていたが目の前に現れたので、億泰は分かりやすく動揺した。
「億泰くん、今から帰るんですか?」
「そ、そーだよッ」
を押しのけるように校内から出ようとした瞬間、が億泰の学生服の裾を掴んだ。
「待って!」
億泰は心臓が思い切り跳ねたのを感じた。
辛そうなの声に、億泰は何もいえなくなり、足も根が張ったように動かなくなってしまったので、恐る恐るを振り返った。の顔は見られなかった。
「あの、億泰くん。私何かしましたか?」
「…」
「いつも、素っ気無いから…私、寂しいよ」
そう呟かれて、億泰はどうしようもない気持ちになった。
何か言おうと思って顔を上げて、そこでやっと、の目が真っ赤になっているのに気が付いた。
気丈に振舞おうとしているのか、顔を少し上げて、涙がこぼれないようにしている。目じりにきらきらした涙が見えた。
億泰は途端に酷い罪悪感とショックに襲われた。雷にでも打たれたかのような衝撃があった。
億泰は馬鹿だった。それまで、自分のちっぽけなプライドで、ちまちまとを避けていたのも忘れて、勢いのままに頭を下げた。
「ごめん! !」
は思わず目を丸くさせた。
ずっと自分が何かしたのだと思っていて、まさか謝られるとは思わなかったからだ。
億泰は顔を真っ赤にしながら、を避けていた理由をとぎれとぎれに語った。支離滅裂ではあったし、合間合間に謝罪をするから、話はメチャクチャだったが、は黙って聞いた。
億泰が顔を上げる。その顔が捨てられた子犬のようだったので、は真剣に聞いていたのに、思わず小さく笑ってしまった。
「アッ、ば、馬鹿にしてるな!」
「ち、違うの。ごめんなさい」
言いながら、は幸せな気持ちでいっぱいになった。まるで小学校の頃に戻った気分だ。そう思うと、熱い涙がひとつ、おまけのように零れた。億泰が今度はわたわたと慌てはじめた。
は深呼吸して、手のひらをさしだした。
億泰はぴたりと動きを止めて、の顔と手のひらを交互に見た。
ははにかんでいた。
「…私も、気付いてあげられなくてごめんなさい。これからも、仲良くしてくれる?」
「…当ったり前だよォー!」
の優しい言葉に、億泰もまた、と初めて出会った頃を思い出した。そして、よりもずっとたくさんの涙を流して、泣いた。握ったの手のひらは、とても小さかった。
その後事情を察した仗助に億泰は軽く小突かれ、3人で受験勉強をして、同じ高校に入った。
億泰が受かったとわかった時に仗助が過剰なほど喜んだので、億泰は逆に気分を損ねて、が優しく、しかし簡素になぐさめた。
それからは、バイトを始めるからと、高校では部活をしないことにしていた。
億泰は、中学校の陸上部で活躍していたの姿を思い出し、少しもったいないなと思った。
「よっ、待たせたな」
「おう」
「じゃあ帰りましょう」
校門で別のクラスの仗助を待っていた2人は、それまでしていたたわいない会話をやめた。
仗助とがそれぞれのクラスの担任教師について話し始めた頃、億泰はひとつだけ、気になっていることがあった。の口調だ。
の口調は今や敬語のみであるが、それまでは普通に喋っていた。億泰の目下の不安は、の敬語は自分が素っ気無くしていたからではないか、ということだった。
実際には、は小学校高学年ごろから敬語が混じり始めていたのだが、億泰はそのことをすっかり忘れていた。
時折耳をつくの言葉に、億泰はどきっとしていた。
「そういえばよォー」
何を話していたのかはわからないが、仗助が話題を変えた。む、と億泰が顔を上げる。
「何で、最近敬語使ってるんだ?」
「ワッ!」
「えっ?」
思わず億泰が驚いて素っ頓狂な声を上げたので、仗助が振り向く。億泰は思わず気にするなと首を振った。
も首をかしげながら、「敬語ですか」と言った。
「変ですか?」
「変じゃないけどよ、いかにも委員長ってカンジだぜ〜」
仗助が歯を見せて笑いながら、眼鏡を指で直す動作をした。
億泰はその間もドキドキしながら、2人の会話に耳を傾けている。
は少し考えて、小さく笑う。
集中していた億泰は、仗助がの一瞬の笑顔に見とれているのに気が付いた。
「小学校の頃に、尊敬したいと思う人に会ったんです。その人は私より大分年上でしたから、私も、その人に見合う態度を取りたかったんでしょうね」
「尊敬〜?」
思わぬ答えに、億泰は不思議そうな顔をした。しかし内心とても安心して、暖かい春の日を素直な気持ちで享受できるようなすがすがしい気分になった。
仗助は一部感じるところがあったようだったが。
「あ、じゃあ私はここで」
「おう、じゃあまた明日な!」
「はい、億泰くんはまた明日。仗助くんも」
「あっ、ちょ」
億泰はと交わす別れの挨拶に、幸せな気持ちでいっぱいだった。
しかし仗助はまだ尊敬する人について聞きたかったらしい。中途半端に手を伸ばした格好のままを止めようとしたが、は少し早足で駆けていってしまった。用事でもあるのかもしれない。
億泰は消えるの背中を見て、僅かに胸の奥がうずいた気がした。ずっと遠くから見ているだけの背中だった。
背筋がしゃんと伸びた、まっすぐな背中だ。軽やかに、春風のように走っていくのも変わらない。億泰は顔を緩めた。
ふと隣にいる仗助が不服そうな顔をしているのに気が付いて、億泰ははて、と不思議そうにして、それから何かに合点がいったようににやーっと笑って、仗助の背中をばしんと叩いた。
「イッテェ〜!! 何すんだよ億泰ゥ!」
「いや〜? なんも〜?」
「…むかつく野郎だぜ…」
仗助が仕返しにと億泰の足を蹴った。億泰がおかしな声を上げて飛び上がったので、仗助は呆れた。
それでも億泰はなんだか満足感に満たされていた。男2人の友情は、今後もきっと続いていくのだろう。