まだ残っている温もり
 杜王商店街は、この海の見える町に古くからある商店街である。この町にできたちっぽけなスーパーに抗うこともなく、みな気ままに過ごしている。なぜなら、サマーシーズンになれば観光客が殺到し、この遺産ともいえるレトロな商店街をものめずらしがって買い物をする客もいることを知っているからである。杜王商店街は女性向けのおしゃれな雑誌に、隠れた観光スポットであると紹介される程度には、古く寂びれていた。

 商店街に軒を連ねる店はみな一様に社会情勢など知ったことかと夜の8時には早々に店じまいをしてしまう。それでも時々、店先で話しこんでいて、シャッターが閉まっていないこともある。





 学校帰りのは、スキップをするような軽い足取りで、そんな商店街を歩いていた。
 今夜の夕食メニューはの大好きなシチューだった。豚肉を買ってきてほしいとメールで言われて、は快く承諾した。

 楽しそうな雰囲気をかもし出すに、商店街の人々は口々に挨拶した。
 シルバーカーを押す老女は、と10分も話し込んだ。それでもは楽しそうだった。

 商店街の中ごろに、の目的の精肉店は店を構えている。
 はついでに、お小遣いでコロッケを買っていこうと思った。もう少し夕方になると、コロッケのおいしい香りが、商店街を歩く人々の行く手を惑わせるのである。味もおいしいので、時々商店街と併せてガイドブックに載っている。

 新鮮な肉の並べられたケースの前に立ち、は少しだけ驚いた。
 いつもは「ちゃん」と声をかけてくれる愛想のよい男性店主がおらず、そこには無表情の青年がいた。黒いエプロン姿の青年は、この平和的な商店街には少し不釣合いにも見えたし、逆に馴染んでいるようにも見えた。

 は戸惑いながらも、メールで頼まれたとおりに豚肉を頼んだ。青年はとても低い声で素っ気無い返事をするので、はますます戸惑った。

「ええと、それから…コロッケ…をお願いします」
「…揚げるのに少し時間がかかる。かまわないか」
「はい」

 青年は店先にある油を熱し始めた。その間に、は精算を済ませる。
 おつりを貰ってしまうと、いよいよ会話がなくなり、わずかに油の弾ける小さな音だけが店先に響いた。

 は意を決して、口を開いた。

「今日はおじさん、いないんですね」
「ああ……今朝、腰を痛めたんだ。歳だからな」
「えっ、大丈夫なんですか?」
「まあ仕方ないだろう」

 素っ気無い言葉ではあったが、決して冷たいわけではないらしい。青年の言葉を聞きながらはそう思った。

「お兄さんはアルバイトなんですか?」

 はそう聞いたが、少し不思議に思っていた。というのも、そんな募集はなかったように思うのだ。もしあったなら、今頃は喫茶店ではなく、この精肉店で働いていたことだろう。
 青年は菜箸を持ったまま首を振った。それからに目をやる。

「いや、オレは息子だ」
「息子さんなんですか」

 は驚きながら、そういえば、体格と口元が似ているな、と思った。
 しかし息子だと聞いて、はなんだか一気に親しみがわいた。先ほどの言葉の様子にも納得がいく。

「そういえば、よく聞いたような気がします。院生の息子さんがいらっしゃるって」
「君はオレの父親と仲がいいんだな」
「とってもよくしてくれます」

 そういうと、青年の鉄面皮に僅かな笑みが浮かんだ。
 相変わらず低い声ではあったが、青年は会話を続けてくれた。

「その制服はぶどうヶ丘だな」
「お兄さんもですか?」
「リゾットでかまわない。オレはパッショーネだ。今は君の言うように、SBR大学の院生だ」
「私の知り合いもSBR大学に通ってます。学部生ですけど」

 リゾットはコロッケを揚げながら、いろいろなことを話してくれた。
 平坦な口調ではあったが、話はうまかった。父親の血は受け継いでいるらしい。これならもし家業を継いでもうまくやっていけるだろう、とは思った。

 コロッケをいくつか揚げて、リゾットはケースの中にそれを並べた。第2軍を再び油の中へ投入してから、の分のコロッケを包んでくれる。
 今夜のシチューに使う豚肉も、さっと包んで袋にいれてくれた。

「袋に入れたほうがいいか?」
「いえ、食べながら帰りますから」
「だろうな」

 リゾットが口端を上げる。どうやら彼もこのコロッケの素朴なおいしさのファンらしかった。
 この店のコロッケは冷めてもおいしいが、やっぱり出来立てが一番なのである。

「熱いから気をつけろ」
「はい」

 指先でつまむようにして受け取り、は顔を綻ばせた。
 我慢できずに、手で持っている鞄を肘に引っ掛けて、コロッケに息を吹きかけてからかぶりついた。コロッケから湧き上がる蒸気が、の眼鏡を軽く曇らせた。

 少し熱かったので、口をはくはくさせながら、は一口めのコロッケを咀嚼した。つぶしたじゃがいもは甘くて、衣はさくさくだ。

「おいしい!」
「そうか」

 コロッケを揚げながら、リゾットはちらりとを見て顔を綻ばせた。

 もう一口だけかじってから、は鞄と買った豚肉を抱えなおした。

「また来ます。おじさんも、お大事に」
「ああ、伝えておく…君の名前は?」
「あっ、そうでした。です」
「忘れずに伝えておこう」

 も、リゾットという名前を忘れないでおこうと思った。
 それから、また会えるといいなと思った。

 は手を振りながら、もと来た道を歩いていった。
 またもや商店街にいる人から挨拶をされた。出口に付く頃、コロッケのよい香りが漂い始めているのに気が付いた。

 はいい日だった、と思いながら足取り軽く家へと帰った。
 家についてから、今夜はシチューだったということを思い出し、ますます今日はいい日だと思った。