夢の粒
 壁に貼られた黄ばんだメニュー。
 年季の入った木の椅子とテーブル。
 天井付近のテレビは野球中継。

 午後7時20分。
 冬のこの時間帯、外はすでに真っ暗。

「なんにしよっかなー」

 狭い店内は、SBR大学の学生でいっぱい。





「ミックスフライって何のフライなんですかね、結局」
「さあ……頼んだらわかるんじゃないか」

 けたたましいレジスターの音。ユニフォームを着たスポーツサークルの男女が談笑しながら店を出て行く。

「オレチーズチキンカツ定食」
「ええーっ、ジャイロいっつもそれじゃん」
「いつもじゃねえよ」
「私は豚キムチ鍋とご飯を」
「決めてないの僕だけ? ちょっと待って……」

 が机の上の薬缶を取って麦茶を注ぐ。ジャイロが脱力したように椅子にもたれかかった。

「よし、決めた。すいませーん」

 ジョニィが注文をしている間、ジャイロとは話し始める。「あっ、オレご飯大盛りで」ジャイロが途中で口を挟む。

「今日のところわかったか?」
「はい、大丈夫です。テスト前に確認しておきたかったんです」
「真面目だな〜」

 ワッ、とテレビの中から歓声がして、3人は思わず振り返る。何が起きたのかは見ていなかったのですぐに顔を戻した。
 左奥の男性が食後の一服をし始める。

「ジャイロが医学部とかホント意外だよ」
「お前ね……そう毎回言われるとオレも傷つくんだぜ」
「そうですか? ジャイロは頭がよさそうですけどね。シーザーも成績優秀ですし」
「ほらァ〜」
「そーかな……」

 いぶかしんだような顔で、ジョニィは麦茶を飲んだ。

「僕にはのほうが頭よさそうに見えるけどね」
「そうですか? 眼鏡のせいかもしれません」
「委員長みたいだもんな」

 ジャイロが悪戯っぽく笑う。が「仗助くんみたいなこと言うんですね」と言う。

「誰だ?」
「仗助?」
「同級生ですよ」

 それからなんとはなしに仗助の話になる。

「お待たせしました、豚キムチ鍋です」
「あっ、私です」

 小さな鉄鍋とお茶碗がの前に置かれる。

「うーん、やっぱりどの鍋でも卵が入ってるな」
「何でだろうな」

 ジョニィがの鍋を覗き込んでうなる。は、嵩増しかな、と思っていたが黙っていた。

「先に食べてていいよ、冷めるし」
「ありがとうございます。いただきます」

 が手を合わせてから、箸で白菜をつまむ。
 少し息を吹きかけて口に運ぶと、辛みのある出汁がじゅわっと広がった。おいしい。

 がそうしてふうふうと息を吐きかけながら鍋を食べていると、2人の定食も来た。
 ジャイロの頼んだ、大きなカツに乗っかったチーズの香りがの鼻をくすぐる。ジョニィはから揚げ定食だった。

 この店にヘルシーという言葉はない。安くて学生の腹を満たすのが本分であると、ボリュームだけが皿の上を占領している。

「毎回頼んでから食べられるか不安になる量だ」
「そうかァ?」

 ジャイロはさくさくとした衣のカツをもぐもぐと口いっぱいに含んでいる。
 その横を、エプロンをつけた学生アルバイトがあわただしく通っていった。

 も初めてこの店に来たとき、定食を頼んでお腹がはちきれそうになった。
 しかしジャイロによると、これよりも量が多くて、かつ値段が同じ店があるというのだから恐ろしい。の限界はこの店の定食だ。

 ジョニィがご飯の上にから揚げをのせて食べる。いい匂いだ。カツよりかは優しい揚げ物の匂いである。

「あー、ゼミどうしようかな……」
「何が」
「発表」
「いつ」
「今週の金曜」
「……がんばってくださいね」

 が少し憐憫を含んだ目でジョニィを見る。ジョニィは「もう嫌だよ」といいながら味噌汁をすすった。

「ゼミってどんなことをするんですか?」
「ん、まぁ発表発表発表……だよ、僕のところはね」
「はぁ……」

 はわかったのかわからなかったのか、生返事をした。

は最近どう?」
「文化祭の実行委員になりました」
「うわ〜、かったりぃな」
「そうですかね?」

 あからさまに嫌そうな顔をしたジャイロを、ジョニィが静かにねめつけた。
 ジャイロはその視線に気付いて口を閉ざすと、白米をほおばった。

「実行委員なら、パッショーネに行ってたりする?」
「ああはい、会議で行きますね」
「おお、マジで。今パッショーネってどんな感じなワケ」
「うーん。私の印象ですけど、変わった人が多いなーって思います」
「そりゃオレの代からそうだよ」

 3人がひそかに笑った。

「ていうかジョニィはなんで知ってんだよ」
「高校時代に付き合ってた女の子がパッショーネで、いろいろ教えてくれたんだよ」
「彼女がいたんですね」
、失礼じゃない?」

 ジョニィがからかい半分で首をかしげると、「いや、そういう話を聞いたのは初めてだったので……」と言いながら豚肉を口に運んだ。
 すると笑みを崩したジャイロが、の顔を覗き込んだ。

はどうなんだよ」
「どう、って」
「彼氏は?」
「うーん、いませんねー」
「面倒な貴公子には付きまとわれてるのにねえ……」

 ジョニィが零すと、が驚いた顔でジョニィを見た。

「付きまとわれてる、って、そういうのじゃないですよね? あの人」
「いやー……どうかな」

 ジャイロとジョニィがにやにやしながらを見るので、は思わず変な気分になった。少し動揺したので麦茶を飲む。

「全然気付きませんでした」
「傑作だぜジョニィ」
「本当にだ! 貴公子の努力もの前には無力だということが証明された」
「やめてください……」

 そうして話しているうちに、ジャイロが食べ終わり、ジョニィが食べ終わった。
 どんなタイミングで料理が来ても、いつも食べ終わるのが最後なのはだ。

 が食べ終わると、がやがやとサークルの学生らしい男女が入ってきた。
 それを一瞥すると、ジャイロが「出るかァ」と言う。とジョニィもうなづく。
 は財布の小銭をかき集めて机の中央にある伝票の上に置いた。

「オレ払ってくるわ」
「うん。、出てよう」
「はい」

 はごちそうさまでした、と厨房に向かって言うと、車椅子を動かすジョニィの先を行き、古ぼけた自動ドアが開くのを待った。
 濃い群青の空には、星がぽつぽつときらめいている。空気がとジョニィの上気した頬を照らす。気持ちいい。

 会計を終えたジャイロは、店を出てから一伸びする。ぱきぱきと背骨の鳴る音がした。

「あー食った食った」
「もー僕お腹いっぱいだ」
「体があったまりましたねえ」

 3人の口からほわほわと幸せな湯気が漏れる。
 今日もおいしいごはん、ごちそうさまでした。