たったひと夏の、あるちっぽけな私の挑戦は、その後の私の生き方を大きく変えたといっても過言ではない。
私の胸に焼きつく、果てしなく瑞々しい夏。それは、あの時の私にとって、新しい世界だった。

その時の私はまだ、何も気づいていなかったけれど。











夏休みが始まり、10日余り。そろそろ折り返しというところだが、私は暇を持て余していた。
私の夏休みは、どうしてこうも始まるまでで絶頂を迎えてしまうのだろう。
始まるまではなんともいえない高揚感があるのに、始まった途端、何もすることがないことに気づく。

そんなことを従姉妹の社会人のお姉さんにこぼしたら、ものすごく怒られた。というか、切実な感じで怒られて、ちょっと引いた。





そしてこうも言われた。「学生のうちに遊んでおきなさい」と。





どうして大人は、口をそろえて皆そう言うのだろう。これは昔から不思議だった。
そんなにも大人は遊べないんだろうか。大人になったことがないから分からない。またお姉さんに殴られそうだが。

「……」

ごろん、とベッドの上で寝返りを打つ。

まぁそれを考えても、今の倦怠感がぬぐわれるわけではないのだけれど。
きっと私が出不精なのが悪いのだ。友達もそれを承知しているから、あんまり私を遊びに誘ったりしない。
私も、誰かと遊んだり、出かけたりするくらいなら、一人の安寧を楽しんだほうがマシだと、思っていた。

……でも、教室の後ろで机を囲み、計画を立てる彼女たちを、正直とてもうらやましく思っていた。
一言声をかけてくれたらと、少し期待していた。

ベッドからもそもそ這って、レースカーテンをつかむ。
今日も何もせずに終わってしまったから、外はすでにオレンジに染まり、蝉のクライマックス合唱が聞こえる。
なんとはなしに見た空色であったが、とても壮絶な色をしていた。
このまま世界が終わりますといわれても納得してしまいそうなほど、赤の混じるオレンジが建物を侵食している。





ああ、夏だと思った。

網戸の向こうには、夏がある。私の知らないきらめきが、宝箱に隠され、そしてそれがそこらじゅうに散らばっているのだ。
そしてそれを見つけられるのは、計画を立てていた彼女たちだけなのだろう。





そう思うと、なんとももどかしい気持ちになった。
でも、なんとなく一歩踏み出せないのは、出不精だから。

だらだらしながら、遅寝遅起きをして、漫画でも読んで一日をつぶしてしまう自分がいい加減鬱陶しい。
夕ご飯を食べるたびに、今日も何もできなかったと少し後悔する自分が嫌だ。

いつもより強い嫌悪感に、強く目をつぶる。このまま、眠ってしまおうか。





「……」





――ふと、このまま眠ってはいけない、という気持ちが芽生えた。眠ればまた、同じ明日がやってくる。妙な使命感に襲われ、私は目を開いた。
悪い言葉で言えば、魔が差したように。何か別のものが、自分に乗り移ったみたいだった。
勢いつけて重い体を起こし、携帯をとる。そして電話帳を開いた。











――素直になろう。私は、夏を、遊んでみたい。





電話帳の一番上、その名前を選び、電話をかける。

電話をかけたのは、相手がでないといいな、という、私の少しの怠慢心からだった。
どんなに熱くなっても、人間、心の底は冷静でずるがしこい。





呼び出し音が数回鳴って、もしかしたら出ないかも、と落胆と少しの安堵を手に入れる。
耳につけた塊が熱い。もういいだろう、と私が携帯を耳から離そうとした時だった。





プツッ、という小さな音がした。
そして直後に、明るい声が、鼓膜を揺らす。





『もしもーし』





「!も、もしもし!?一十木?」
『うん、そうだよ。珍しいね、が電話してくるなんてさ』

ていうか初?といいながら、電話の向こうの一十木は笑っている。
なぜだかそれに安心して、私は少し気が抜けた。











って超器用だね!”





去年の文化祭の準備中、初めて言葉を交わした一十木はそう言った。アドレスは、そのときの成り行きで交換したものだった。

一十木は裏表がない。人を素直に器用だなんてほめたりする。
鬱陶しいくらい明るくて、でも将来の夢にはとても真面目。突拍子もない行動に出るときもあるけど、常に前向き。
私はそんな一十木の人柄が、とても好きだった。かと思えば、同じ中学生とは思えないほど、先を見て行動していて、少し尊敬もする。

受動的な私とは大違いだ。





「あ、あのさ」
『ん?何何?』





「明日、暇?」





――でも、だからこそ、私も一十木のようになってみたい。
これは、最初の一歩。

声が震えないよう、正座した太ももに爪を立てる。





『うん、暇だけど』





返事は、割とあっさり返ってきた。当たり前か、世間の同年代は、日常茶飯事的こういうことをしているんだから。
そう自分に言い聞かせながら、とくとくと鳴る心臓を耳の裏で感じる。





「明日、一緒にどっか、遊びに行かない?」
『えっ』
「だ、駄目?」
『ううん、そーじゃないって!ただ、と遊ぶのって初めてだなって思ったんだ』





そりゃそうだ、出不精だからな。
ここまで話しても、特に拒否の色を見せない一十木に少し笑う。一十木を相手に電話してよかった、と思った。





『ところでどこ行くの?』
「えっ、えーと……ごめん、何も決めてない』











一度限界を迎えると、その後は割りと普通に話せた。
私が、余り友人と遊んだりしないから分からない、というと、一十木は小さく笑いながら、じゃあ俺に任せて、という。

『えーっと……明日の11時に、学校の前でいい?』
「うん」
『まず昼飯食べてからー……』

それから予定を一十木に立ててもらった。
私はそれを手近にあったノートにメモする。後でわかりやすい場所に書き直そう。

『じゃあ明日の11時に……うわ、すっげー楽しみ!』
「そ、そんなに?」
『うん!俺、と遊ぶの初めてだし!』

本当にうれしそうで、少し戸惑ってしまう。
ちょっとむずがゆい。明日が来ることに、少しわくわくする。





一十木は、やっぱり凄い。
さっきまでの不安は、期待に塗り替えられている。

一十木といれば、なんでもできてしまいそうな気がする。

そう思うと、言葉は素直に出てきた。





「一十木は、凄いね」
『え?何が?』
「私、尊敬してるよ。一十木のこと」





そう言うと、一十木は少し黙って、へへ、と笑った。照れているようだった。
私もそれに、小さく笑い返す。





「じゃあ、また明日」
『うん、明日』





少し喜色をにじませた声で、通話は終わった。

通話時間の表示を見て、携帯をベッドの上に放る。
それから私も、正座のまま横に崩れる。

携帯を当てたままだった耳の周りの髪が、すこし汗ばんでいる。

にやける表情を止める術を知らないまま、私は枕に顔を埋める。
ど、ど、とうつぶせで押しつぶされた心臓の鼓動が聞こえる。





“すっげー楽しみ!”





声が、頭の奥で反響する。なんで一十木は、ああもまっすぐなのだろう。
夏が似合う男だ。そう思ってにやにやしながら、夕焼けよりも真っ赤な一十木の髪色を思い出す。





ああ、明日だけは、早く来ていい。
明日だけは、退屈なくらい時間を引き延ばしてくれてかまわない。

まだ、蝉は鳴きやまない。





私のひと夏の冒険が、始まった瞬間だった。