ああ、何で私はこんなところに来てしまったのだろう。

不安になると、後悔する悪い癖。
それがどうも、ここのお国柄とはミスマッチな気がして、また不安がむくむくと膨らんでしまう。

もうすでに泣きそうだ。というかすでにホームシックだ。今すぐタイムマシンに乗ってちょっと前の私を説得したい。


「〜〜!」
「〜〜〜?」


言葉が通じない。
そんなささいなことが、これほどまでに人を恐怖のどん底に突き落とすのかと私は思った。

*********

私、は、夏休みを利用して、短期留学をすることに決めた。
友達が言っていたのだ。「英語を上達するためには、リスニングが一番」と。

私の学校は英語教育に力を入れていて、学生のための留学支援制度も整っている。

そんなことを知った数ヶ月前の私は、何のスイッチが入ったのか、「短期留学をしてみたい」と両親に申し出てしまったのである。
両親は驚きこそすれど、どちらかといえば消極的な娘の提案に賛成してくれた。

しかし、問題はそこからだった。
留学が近づいてくるたびに、どんどんと不安が募ってきたのだ。

「うらやましいわあ」とか人をからかっていたお母さんも、留学の日が近づくにつれ「ちょっとあんた、大丈夫?」と怪訝そうな顔をしていた。
だが、やめることはできなかった。キャンセルはお金がかかるし、何より私より喜んでくれた両親に申し訳が立たない。書類もいっぱい書いてもらった。

そうして今私は、オーストラリアの地を踏んでいるのである。





お母さん、ごめんなさい。もしかしたら、あなたの娘は、リタイアして帰ってくるかもしれません。





そんなことを何十回と思いながら、私はキャリーバッグを持ったまま、壁の隅で固まっていた。
耳に強制的に入ってくる英語が怖い。
別れの口付けを交わす外国人カップルを憎く思った。





「ていうか、まだかな……」





迎えの人がきて、ホストファミリーの家に連れてってもらうはずなのだけど。
迎えの人らしい人が一向に来ない。

自分の小さな日本語のつぶやきが英語の喧騒に掻き消え、不安だけが増す。

迎えの人は特徴的だよ、コアラだよ、といわれたが、何がコアラなのかさっぱりだった。
そういう見た目なのか、コアラのぬいぐるみでも持っているのか。

肩掛け鞄をぎゅっと抱きしめながら悶々としていたら、突然ふっと視界が暗くなった。





「Hello!?」
「ひっ、」





突然の大きな声に顔を上げると、そこには鼻に絆創膏のついたお兄さん、と、「あっ」





「コアラ!」
「?」

なんとお兄さんの背には、コアラが乗っかっていた。

思わず指差してしまい、はっと私は口を覆う。
お兄さんは私を不思議そうな顔で見ている。





ど、どうしよう。いきなり叫んでしまった。怖い。どうしたら。言葉。





混乱してそう思っていると、涙がじわーっとにじんできた。
やばい、泣くな、と思っても、心が震えて泣けてくる。

「うう……」
「……」

お兄さんはぽかんとしながら、なぜか泣き出した私を見下ろしている。
私は私で、あふれる涙を止めようと必死に目をぬぐっていた。





「あれ、だよな……?」





ふと聞こえた日本語に、私は思わずぱっと顔を上げる。視線が、お兄さんと交差する。
お兄さんは首をかしげながら、口を開いた。





?」





確かに呼ばれた、自分の名前。

先ほどの日本語は幻聴だったかもしれないが、そうだ。
名前だけは、言語が違えど呼んでもらえる。

それになぜか酷く安心して、私は何度もうなづいた。

そんな私を見て、お兄さんは顎に手をあてて何か考えていた。
我に返った私は、つい日本語で話しかけてしまう。

「あの……」
「俺はオーストラリア!」

そう言って、お兄さんはにかっと笑った。
や、やっぱり日本語?これは夢なのだろうか。

全く外国っぽいつくりの顔で、滑らかに日本語を話されると、なんだか違和感がある。
ぼんやりとそんなことを考えて、私ははっとする。

「わた、私は、、じゃない、です!」
「おー!よろしくな、!」

そう言って、手を差し出されたから、恐る恐る手を出したら、ぎゅっとつかまれて力の限りシェイクされた。
その手は暖かくて、私はやっぱり安心してしまった。

*********

それにしても、俺はオーストラリアとはどういうことだろうか。名前?出身てこと?出身はあの流れでおかしいけど。
俺はオーストラリア代表ですということだろうか。

そんなことをもんもんと考えながら、私とお兄さんは歩いていた。
キャリーのがらがら、という音が、どこか遠くに聞こえる。

いや、今は名前よりも――

「……」
「……」

あの、背に張り付いてるコアラが気になる。さっきは気づかなかったが、スナイパーみたいな目をしている。怖い。
私の視線に気づいたお兄さんが、こちらに顔を向ける。

「どうしたー?」
「あ、いえコアラが」
「おっ、触ってみるか!?」

いやいいです、とやんわり断る。
どうもお兄さんはハイテンションだ。外国の人ってテンションが高いイメージがあったけど、お兄さんはなんかちょっと違うテンションの高さだ。
これが英語なら私は相当ビクついていただろう。

空港ってこういう動物持ち込むのアリなのかな……お兄さんもなんか、こう、サファリー、みたいな服装だし。

謎が謎を呼び、私の当初感じていた不安は、なりを潜めていた。

*********

「Hello!」
「はっ、ハロー!」

お兄さんと共に駐車場に行くと、車の運転手さんらしい別のお兄さんが待機していた。
おお、さわやか……。コアラのお兄さんとはまた違ったさわやかさだ。夏より冬が似合いそう。

コアラのお兄さんは、その運転手のお兄さんとなぜかハイタッチを交わしていた。な、なぜ……?そういうノリ?

コアラのお兄さんに促されて、私は運転手のお兄さんと一頻り挨拶を交わす。意外とすんなり話せた。練習したから当たり前といえば当たり前だけど、達成感を覚える。
運転手のお兄さんの名前はヒューさんと言うらしい。
握手もした。

「じゃ、車に乗れよー!」
「はーい」

ヒューさんに荷物をトランクに積んでもらい、私は助手席に乗った。あ、運転席左じゃないんだ。意外。
ヒューさんも乗ると、車は発進した。

*********

ヒューさんは本当にやさしかった。簡単な質問をしてくれる。
上手く聞き取れなくて聞き返す私に、もう一度丁寧に話してくれる。
時々変な質問もされた(漫画好き?って言われてびっくりした。好きです)。

そうしたやりとりをしていたら、コアラのお兄さんがとんとんと私の肩をたたいてきた。

「え?」
「見てみろよ!」





お兄さんの視線の先をたどると、「カンガルーだ!」





「初めて見るか?」
「は、はい、初めてです!」

思わず窓ガラスに張り付いてしまう。
か、カンガルーが普通にいるって本当だったんだ……知っててもなんか感動してしまう。
青空の下、しかも割りと近いところに、カンガルーはいる。

ほああ、と言いながら外を見ていたら、なぜかお兄さんに爆笑された。
そ、そんなに変な顔してたのか、私。

一頻り笑ったオーストラリアさんが、「きっと二週間、ずっとその顔んままだぜ!」と言ってきた。

「え?」
「オーストラリアはいいところだかんな!」

そう言ってにかっと笑ったお兄さん。
ヒューさんは苦笑している。

……みんな良い人だなあ。そう思うと、なんだか不安のドキドキが、ワクワクに変わった気がした。

「終わったら迎えにくんのも俺らだから、そん時は良かったところ教えてくれよ!」
「えっ」
「今度は、英語で!」

な!と言ったお兄さんを、私はじっと見つめていた。
ヒューさんが車を止め、着いたと教えてくれた。


*********


車を降りて、ヒューさんが荷物を降ろす間、私はお兄さんにどう切り出そうか迷っていた。
お兄さんは辺りをきょろきょろ見回していたので、服のすそをつかんで、こっちを向いてもらう。
私は、不思議そうな顔のお兄さんを見上げ、口を開く。





「ちゃんと、覚えておきます、良かったところ」
「おー!メモっとけよ」




そう言って自分の冗談に笑うお兄さんは、私の頭をがしがしと撫でた。
ずいぶん男らしい撫で方だな、とか思いながらも、顔は少し緩む。

なんとなく撫でられたところを触り、私は再度口を開いた。





「あの、お兄さんの名前って……」
「ん?最初に言ったじゃねぇか」





お兄さんはまた笑って。





「俺はオーストラリア!オーストラリアにようこそ、!」





そう大きく、言い放った。
私は不思議な感覚にとらわれて、身動きできなくなる。

なんだろう、本当に彼が、“オーストラリア”な気がするのだ。





ヒューさんが荷物を持ってきてくれたので、お礼を言って、私はいざ、ホストファミリーの待つ家の扉へ向かう。
そこで、、と名前を呼ばれた。

振り返ると、笑っているヒューさんと、“オーストラリア”さん。





「Have a good day!」





ヒューさんが言う。





「G'day!」





”オーストラリア”さんが満面の笑みで言う。





私は小さな脳みそを回転させて、大きく「you too!」とだけ叫んだ。
その短い言葉に、思い切りの期待が詰まっているのを、私はお腹の底で感じていた。