「お姉ちゃん、学校の試合、見に行かないの?」
「……はぁ?」

夏休み。扇風機の回るリビング。
今日もせっせと宿題をする妹の前で、私はバニラバーを食べながら漫画を読んでいた。

すると突然、一生懸命動かしていたシャープペンシルを止めて、妹が聞いてきた。

妹の言う試合とは、野球の試合。
妹は大の高校野球好きだった。熱心に中継も見てるし。

ちなみに私の通う高校は武蔵野第一高校である。

妹はシャープペンシルを机に放り投げながら、大きなため息をついた。

「あーあいいな高校生、私も高校生になりたい!」
「なれるじゃん、来年」
「ていうかお姉ちゃんは何で見に行かないの!?自分の学校が戦ってるのに!」
「面倒だしルールよくわかんない」
「もー」

怒り心頭、といった感じで、妹はまた宿題に取り掛かった。
私は垂れそうになっていたアイスを舌でぬぐう。

「ウチってどこまで勝ってんの?」
「……今日準決勝だよ」

じとっとしたような、呆れたような目で見られた。
準決勝。普通に感心した。

感心したが、別に関係ないかなと考えて漫画を読むのを再開しようとする。私のクラスにも野球部のヤツはいるにはいる。
準決勝か。

「……」

準決勝。その言葉がひっかかった。漫画を読もうとしても、つい気が脇道に逸れてしまう。
こうなるともう駄目だ。私は私の性格をよく知っていた。
一度気になると、他のことが手に付かない癖。これを止めるには、その気になるものをなんとかしなければならないことを知っている。

アイスの棒にへばりついた跡を舐めて、私は立ち上がる。漫画は机の上に放った。
アイスの棒をゴミ箱にぽいして、私は自室に着替えに行った。





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どんな格好で行けばいいのか分からなかったので、制服を着た。こういうとき学生は便利だ。
鞄にタオルと日焼け止めと100均で買った扇子を入れておく。
場所も分からなかったので、妹に聞いた。

会場に付いてからペットボトルのスポーツ飲料を購入し、入場する。

太陽が容赦なく照り付けてきたので、目の辺りに手をかざす。
座席は妙な熱気に包まれていた。

なんとか開いている席を探し、腰を下ろして表示を見る。テレビで見たやつだ、とぼんやり考えた。
会場の雰囲気にのまれ、頭の芯がぼんやりする。





「(R、H、E……Rが得点か。H……はヒットかなあ。Eがよくわかんないけど)」





本当に何にも知らなくてちょっとうんざりした。
タオルを頭にかけ、扇子で顔を仰ぐ。

「(武蔵野が2で、ARC?が3……負けてるのかな)」

ペットボトルに口をつけながら、グラウンドに目を凝らす。榛名、いるはずなんだけど。

同じクラスの、野球部の榛名。背がすごくでかい。最初バスケ部かと思ったくらいだ。
あ、と小さく声が漏れる。





「あれか」





少しだけ視力の弱くなった目を細め、そいつを凝視する。あれだな。

てかピッチャー?さすがの私もピッチャーキャッチャーくらいは分かる。
なんか目立つポジションにいるんだな、あいつ。全く知らなかった。
妹に聞いたような気もするけど、たぶん聞き流した。





榛名が投げて、相手に打たれる。って、ああ、打たれちゃった。
頬杖をついて、ふう、とため息を吐く。なんか打たれるとびくびくしてしまう。

「(あ、榛名が投げてアウトにした)」

今のはなんかいい感じだったな。気持ちいい感じだ。
そのあともいい調子で続いていたのに、4点5点と連続で入れられ、しかもキャッチャーの人がボールを落として6点まで入れられてしまった。

「……」

いやまだ、なんとかなる、よね。

……ああもう、心臓に悪い。
野球詳しくないから、余計もどかしいじゃないか。

私はドキドキした気持ちでいっぱいになり、試合を見ていた。





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「……、終わっちゃった」





7点あたりから人も帰り始めて、雲行きやばいでしょ、と思っていたら。
4対11で負けてしまった。
負けた瞬間はあっさりしていて、一瞬何が起こったかよく分からなかった。

はぁぁ、と大きなため息が出る。

「(ARCって強いのか……)」

全く野球を知らない私でもがっくりしているのに、ピッチャーの榛名は今どんな気持ちなんだろうか。
最後がっつり打たれてしまったし。

額の汗をタオルでぬぐいながら、榛名に会ってみようか、と考えた。
こういうのって、会えるんだっけ。とりあえずここ、出なきゃ。

ぬるいペットボトルをつかみ、鞄に放り込む。
なんだか私は意気消沈してしまい、妹に「負けた」とだけメールを打って、席を立った。





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結局榛名を見つけたけれど、話しかけられる雰囲気じゃなかった。
私と同じ制服を着た人がたくさんいたし、私はそれを遠巻きに見つめてから、榛名たちっていったん学校に戻るかな、とぼんやり考えた。

というかそんな光景を見て、私が何か言えることってあるのだろうか、とも思った。






さっきまでのドキドキの名残が、体を揺らす。最初はいいドキドキだったのに、途中から完璧に不安のドキドキに変わってしまった。
結構いい線行ってると思ったんだけどな。私は。

「(そもそもルールすらちゃんと分かってないんじゃあなあ……)」

そう思いながら顔を手で覆って歩く。
榛名を含めた野球部の人たちのことをかんがえると、なんともいえないやるせなさが襲う。
精神的に疲れたせいか、思考がネガティブなほうへ行く。

とぼとぼ歩きながら、私は学校へ向かった。





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「あれ、
「……」





校門のところで入道雲を見つめながら待機していると、案の定榛名に会うことができた。
後ろには野球部の人たちがいて、私は場違いかなと思ったけれど、榛名は私を見たままだった。
目が合った野球部の人たちに、小さく会釈する。

制服姿の榛名は、私を不思議そうに見つめていた。





「お前何してんだよ?熱中症んなるぞ」
「……」
「補習か?お前頭よさそーなのになあ」
「試合」
「は?」
「さっきまで、榛名たちの試合見てた」





そう言うと、榛名は黙った。
それから、少しだけ作ったような声で、「めっずらしーな。お前が見に来るなんて」とからかうように言った。

その声に、私は思わず顔を上げる。
榛名は、少しだけ疲れたような、やわらかい表情でそこにいた。
教室では見ることのない表情に、私は混乱した頭が少し冷静になるのを感じていた。
榛名は、泣いたのだろうか。

野球部の人たちの話し声が、遠くに聞こえる。





「ごめん。途中からしか見てないけど」
「……どっから?」
「2対3、くらいの時」
「そっか」





後頭部を掻きながら、つか終わったあとに話しかけてくれりゃ良いのに、と小さくつぶやく榛名。
私は唇をかみ締めた。

「だって……なんて声かけたら、……わかんなくて」
「お前それでちょっと元気ないのかよ」

そう言って、榛名は苦笑いした。それから、私の頭を少し乱暴になでてくる。
払いのける気にもなれずに、私はうつむいた。

「負けたのはどうしようもねーし、次は春!さっさと切り替えなきゃなんねェの」
「……うん、」

なぜ私が慰められているのだろう。情けなくなって、ごめんね、と小さくつぶやいた。
私は顔を少し上げ、それから、やっと言いたかった言葉をつむぐことができた。





「それから、」
「ん、」
「お疲れ様」





そう言うと、榛名は少し眉を下げて「おう、ありがとな」と言った。
私が言葉に詰まってこくこくとうなづくと、じゃあ、帰るか、という。

私も、少しだけ口角を上げようとしながら、口を開く。

「うん。帰ろう。……あ、でも野球部の人たちは」
「いや、大丈夫」
「……ほんとに?」
「おう」

榛名が私の後ろの野球部の人たちに向かって、なっ、と言う。
野球部の人たちが小さく笑う声が聞こえて、少し恥ずかしくなった。

赤い顔をごまかしたくて、私は足を進める。
隣に、榛名が並ぶ。





「あ、そうだ」





榛名がにかっと私に笑いかける。

「?」
「あのセリフ、言ってくれよ」
「?何のこと?」

本気で分からない、とゆるりと首をかしげると、榛名は、ほら、タッチの南の、という。
それに一瞬ぽかんとして、私は少しだけ、泣き笑いみたいになった。





暗い気持ちに、光が差すのを感じる。
次までに、きっちりルールも覚えておこう、と小さく決心しながら。





「……榛名、私を、甲子園に連れていって」
「おう、任せとけ!春の甲子園、を連れてってやるよ!」





そう言った榛名は、とても大きく見えた。