目を覚ますとすぐに、床に羽ばたいて散乱したままのノートが目に入った。
不愉快な暑さが、全身を包んでいる。
ぼんやりしながら、今は何時なのだろう、と考えて、体をさする。





――もう何日もこうだ。
部屋の中で、一日のほとんどを寝てすごし、たまにリビングに降りて何かを食べ、吐き気をこらえる。





シーツにすがりつきながら、私は情けなくなった。
じゅわじゅわと鳴く蝉の声が、どこかそっけなく聞こえた。





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――夏を迎える前に、私は初恋の終わりを迎えた。
さあ明日から夏休み、というときに、見てしまった先輩の彼女。ショックで、その日はどんな風に一日を終えたか覚えていない。





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散々泣いて、目がはれているのを感じながら、私は一階へ降りた。
両親は共働きで、家にはいない。お盆までは二人とも忙しいのだ。
がらんとしたリビングは、生活感が無くて、死骸みたいだった。

何か食べないと、と思いつつ、棚をあさる。残り一枚となった食パンを発見する。
そろそろ買い出しに行かなければ、と思うが、そんな気力も湧いてこない気がする。でも、行かなければ。

自分の体を叱咤して、パンをトースターにかけて焼いてから食べる。咀嚼するのに飲み物も何も無いから、口と喉ががさがさする。
時間をかけて食べ終えて、喉の奥で感じる酸っぱさに耐えながら洗面所へ向かう。
外出するなら、多少身なりを整えなければ。





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洗面所で自分の顔と対峙して、少し呆然とした。
目は思ったより腫れていない。だが、鬱屈とした表情と、ぼさぼさの髪が、とてもみじめに見えた。
亡霊みたい、とどこか他人事に思う。

髪を手でだいたい直して、ふと毛先を見やる。
ずいぶんと伸びた髪は、胸の下まであった。





「……切ろうかな」





思わず、ぼそりと呟く。予想以上に陰鬱な声だ。喉がかすかすする。

もともとこの髪は、女の子なら長いほうが見栄えが良いかも、と思って伸ばしたものだ。そう――先輩に、よく見られたくて。
だけれど今は、重たい枷にしか見えない。

そう思うと、一気に喉奥が詰まって、吐き気がしてきた。
流し台に手をつきながら、泣きそうな気持ちを抑える。

蛇口をひねり、水を手ですくって顔を洗う。水は生ぬるいはずなのに、冷たく、新鮮に感じた。
タオルに顔をうずめて、顔を上げる。それから、鏡を見た。





髪を切ろう。





私は、目の縁が少し赤い自分を見つめながら、そう決めた。
まだ少しだけ、胸の奥が痛い気がした。





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「……」





溶けたみたいに青い空も、爽快なまでの蝉の声も、黒い影も、子どもの声も、入道雲も。
全てが、ちっぽけな私をさいなむ。だが、不思議と嫌な気分にはならない。
抗いようの無い、大きな存在を感じる。茫然自失とはこのことだ。





切られた毛先が、時折首にかかる。
髪はばっさり切った。床に落ちていく自分の髪を見ながら、ずきずきする胸を必死にごまかして。
こんなに短くしたのは、小学校以来かもしれない。





自分が惨めなのに変わりは無いが――ただ、少しだけ、気持ちが軽くなった気はした。





ふらふらと埃っぽい道を歩いていると、前方に見知った顔を発見し、思わず下を向いた。
なんとなく、今の状態で顔を合わせたくなかったからだ。

しかし、相手は私に気づいて駆け寄ってくる。
知らないフリをしてほしかったのに。

少し俯き気味のまま、私は彼と視線を合わせる。





「こんにちは、先輩」





かく、と人形のように首をかしげて挨拶するのは、後輩である荒井くんだった。
相変わらず長い前髪からは、夏の暑さを感じさせない落ち着いた瞳が覗いている。
この暑い中、荒井くんだけ幻のように、とても静かに呼吸していた。

どう返事していいかわからず、喉を押さえて黙っていると、不思議そうな顔をした荒井くんが首の辺りを見つめる。





「髪、切ったんですね」
「……うん、」
「暑いですからね、今年」





本当は、そうじゃないんだけどな。思わず苦笑いしそうになってしまう。

相変わらず口数の少ない私に、荒井くんが怪訝そうな顔をした。「……何か、ありましたか」





確信にも、心配にも似た口調でそう聞かれ、私は少し戸惑う。
思わず、髪に手を伸ばす。しかし、胸の辺りで、手のひらが空ぶる。





ああそうか。切っちゃったから、ないんだ。





そう思うと、一気に頭が冷えた。





「ちょっと、失恋しちゃって」
「!」





独り言のように、言葉が口から滑り落ちた。どうしても気まずく、目線はそらしてしまう。
ただ、前ほど悲しさは感じない。むなしさはあっても。逆に吹っ切れたのかもしれない。

耐え難いような雰囲気になってしまって、私はあわてて笑顔を取り繕った。
頬が重い。ずっと笑っていなかったから。





「変?この髪型」
「あ、いえ、そんなことは、」





弾かれたように返事をする荒井くんに、小さく笑う。
きっと彼の目には、私は痛々しく映っているんだろうな。

しどろもどろになりながら言葉を探す荒井くんに、「それじゃ、私買い物に行くから。また学校でね」と行って、隣を通り過ぎる。





口に出したせいか、また少しだけ気持ちが軽くなった。そう思ってサンダルでぺたぺたと歩いていたときだった。





「あ、の!」
「……?」





荒井くんの、珍しく大きな声が聞こえてきて、私は停止してからゆっくり振り向く。首ににじんだ汗に、髪の毛が張り付く。
背を向けたままの荒井くんは数秒沈黙してから、こちらに体を向けた。

拳を握ったり解いたりしながら、彼はじっとこちらを見る。
私も、彼をじっとみる。荒井くんの瞳には、焦燥のようなものが浮かんでいた。
さっきまで、浮世離れしたような雰囲気を纏っていたのに、今はその間逆だ。内心、少しだけ驚く。





「あの、先輩」
「なあに」





まごつく荒井くんを、ぼうっとしながら見続けていると、彼は目をぎゅっと閉じて口を開いた。
さら、と彼の前髪が揺れる。





「あの。その髪型、とっても素敵、です」
「……」
「前の、長いのも、すごく素敵で、」
「……うん」





「だけど、今の先輩が、その、」










好きです、と蚊の鳴くような声で言った荒井くんに、私は何かに、気づいてしまった気がした。