「あら」






暑い中、が自身の勤める高校からスーパーに寄って、自宅に帰って来た矢先のことだった。
いつもはほとんど使われていない下宿先の掲示板に、今日の夕方から断水というお知らせの紙が貼ってあった。

は夏野菜とそうめんの入ったビニール袋を抱えて、額の汗を手でぬぐう。

は1つため息をついて、明日の朝にでも風呂に入ろうか迷った。
しかし、やっと仕事先から帰ってきて、また少しパソコンを使って仕事をしてから、お風呂に入ってからご飯を作り、布団に入るつもりだったので、汗まみれのまま布団に入るのは少し気が引けた。
ご飯を炊くだけなら、今のうちにやっておけるだろう。そう思っているの後ろから、「あれ」と声がかかった。

が振り向くと、そこには同じ高校に勤めている、同年代の坂田銀八がいた。
夏季休暇中にも関わらず、いつもの眼鏡にくわえ煙草で、文字の書かれたピンクのTシャツにコンビニのビニール袋を提げていた。

は思わず下宿先と銀八を見て、大きな目をぱちぱちと瞬きさせた。

「……こんにちは、坂田先生……一緒のアパートだったのね」
「あ、ああ、本当に。毎日暑いですねェ」

ぽりぽりと後ろ頭を掻く銀八は、プライベートな格好を見られて決まりが悪いのか、少し戸惑ってから中へ入ろうとする。

「断水ですって。困っちゃいますね」

しかし、がもう一度貼り紙を見てそういうと、銀八はそのままバックして、隣へやってきた。

「あー……」

紙に書かれた文字を見て、銀八の目が、いかにも面倒だというように半目になる。
ついでに、に気付かれないように煙草を消して、「銭湯しかないな」と胸中でつぶやいた。

「今日はお風呂に入ってゆっくりしたかったのに、これじゃあ明日までお預けですね」
「え? そこに銭湯あるじゃん」
「え?」

思わず砕けた口調になった銀八の言葉に、が銀八を見やる。の大きな瞳が銀八を捉え、銀八は思わず一歩引いてしまう。
銀八の心臓が、小さく早鐘を打つ。

「あ、いや、商店街の奥。抜けていったらあるんですよ」
「そうなんですか! 私いっつも向こうのほうにお買い物行っちゃうから……知らなかった」

銀八は、時々水道代が払えずに水が出ないことがあるため、銭湯へ行くのだ、ということは黙っておいた。
の顔が幼い子供のような笑顔に変わる。

「じゃあ、銭湯に行きます。私銭湯って初めて」
「……よかったら一緒に行きますう?」

銀八はなんでもないというような声色を装って、にそういった。は特に気にしないまま、「いいんですか」と聞いた。
無邪気なの笑顔に押されて、銀八の返事が詰まる。

「あ、いい、です……よ?」
「やった! でもまだ早いから、もう少し後でいいですか?」
「ああはい、じゃあ」

2人はまた後で落ち合うことを決め、それから各々の部屋へと帰った。











ひぐらしの鳴き声が聞こえて、と銀八は集まった。
は炊飯器のタイマーをセットしてプリントを作り終えたし、銀八はピンク色ではなく、さわやかな白のTシャツに着替えていた。

「タオルと小銭。あと石鹸とシャンプー。で、いいですよね」
「はい、じゃあ」

2人は歩き出し、それから数分会話をした。

実は普段、2人で話すことはほとんどなく、最初は言葉少なであった銀八も、次第によく喋るようになった。
揚げ物の香りのする商店街を通り、流暢に会話できる頃には、2人は銭湯へとたどり着いていた。
木造の建物でそれなりに大きく、出入り口が男女で分かれていた。

「うわあ、結構大きい。銭湯って感じですね。結構入り組んだところにあるのね」

1人で来たら少し迷ったかも、とはつぶやいた。

「うーん、どうしましょう。終わったら別々に帰りましょうか」
「……ここらへん客引き多いから、一人で歩くと危ないですよ先生。普段何分くらい入ってます?」
「……でも、待たせちゃうかも」
「中でテレビでも見て待ってますんで」
「……そう?」

テレビがあるのね、とは1人感心して、いつもの入浴時間を告げた。打ち解けた銀八が、少し笑って「そんくらいなら待てます」と言った。

「じゃあごめんなさい。また後で」
「後で」

そういって、2人は別々の入り口へと入っていった。











結果から言えば、は初めての銭湯を楽しんだ。思わず、何で教えてくれなかったの、といいたくなるくらいだった。
扇風機の回る脱衣場に、近所の人らしい女性が何人かいて、にぎやかにおしゃべりをしていた。

お風呂も、テレビや雑誌で見るようなそれだったし、は年甲斐もなくわくわくして、身体と頭を洗って髪をくくると、早々にお湯に浸かった。

いつも入るお湯よりは熱めだったが、全身の筋肉がほぐれていい気持ちになった。
ほっとしていると、向かいで浸かっていた老婆と目があったので、がにっこり笑うと、相手も笑って話しかけてきてくれた。そのまま世間話をして、全身が真っ赤になるころ、は湯船から上がった。

いつもより熱いお湯だったので、集まる時間にはまだ余裕があった。

服を着て髪を乾かし、脱衣所の中をふらふらする。

学校にあるような体重計に、古いポスター。大きな鏡には、どこかの会社の宣伝用の名前が小さく入っている。
フルーツ牛乳もマッサージチェアもあったが、今日は2人で来たのだということを思い出して、は慌てて外に出た。

入り口から少しだけ顔を出すと、そこには銀八がいた。首にタオルをかけたまま、ぼーっと突っ立っている。
は駆け寄って、小さく両手を合わせた。

「わーちょっと遅れた!ごめんなさい
いや、大丈夫。ほい」

銀八はごそごそと手持ちの袋をあさって、パピコを取り出した。それを二つに割って、に渡す。
暑い空気に触れて、少しだけ白い煙が舞う。

「あげる」
「えっ」
「別に今食べなくてもいいですけどォ」

そういいながら、銀八は中身を吸っている。は夕飯のことも考えて、「それでは、後でいただきます」と言った。
パピコを頬に当てると、ひんやりしていて気持ちがよかった。

そのまま2人でゆっくりと歩き出す。

「銭湯、楽しかったですー。本当、今度もこよっと。教えてくださってありがとうございます」
「いや、全然。……銭湯来ると神田川思い出しません?」
「かんだ……ああ、歌の、ですね!」

「懐かしい歌を出してきますねえ」とが笑う。

「でもあの曲なんだか物悲しいですよね。恋愛なら、もうちょっと楽しいほうがいいかも」
「確かに」

同意する銀八に、なんだかおかしくなって、は笑ってしまった。なんとなく、銀八と恋愛というのがミスマッチな気がしたからだ。
ふと話をしながら、は、銀八が眼鏡を取っているのに気がついた。

「坂田先生、眼鏡はずしてるんですね。見えますか?」
「まァぼちぼち」
「はずすと、顔が幼い感じですね」

顔を覗き込むに銀八は少しだけ顔が熱くなった。
とはいっても、先ほどまで湯船に浸かっていたので、には気付かれなかったが。
も、白い肌が健康的に赤くほんのりと色づいていた。

銀八が目をそらしながらパピコをすすると、中身がもうなかったので、ずずっという間抜けな音が響いた。











短い道のりを歩いて、アパートに着く。は4階、銀八は2階だ。
が足を階段にかけて、振り向く。
石鹸の香りが、銀八の鼻を掠めた。





「おやすみなさい、坂田先生」
「……おやすみ、先生」





簡潔な言葉で別れた後、銀八は自室に戻り、飲み物を飲むために冷蔵庫を開けた。
ついでにふと、冷凍庫を開ける。

それから、小さくため息をついて、顔を片手で覆った。





「……どうすっかなァ、これ」





そこには、パピコの代わりに食べられる予定だったスーパーカップが、ビニール袋に入ったまま鎮座していた。