はコーヒーが好きだ。ワーカホリック気味なは、いつもコーヒーを飲みながらデスクワークに向かっている。それはディスクの完成披露式典襲撃から、ラボではなく在宅ワークに切り替わった今も変わらない。
 もしここに彼女の親愛なる恋人がいれば、すぐさまコーヒーを取り上げて彼女をベッドに押し込むだろう。彼は彼女にコーヒーを持ってくる役だったが、同時にワーカホリックな彼女のストッパー役でもあった。

 仕事用の眼鏡をはずしながら、ぐっと背を伸ばす。ふとパソコンのモニターに映る日時を見て、彼女はそっと頬杖をついた。早朝というにはあまりに遅すぎる。また一夜を通り越して仕事をしてしまった。
 「あの日」から恐ろしいほど忙しいのか、の親愛なる恋人を見なくなって数日経つ。彼女自身もまた、安全面を考慮し、現在は隠れるようにして借家に引きこもり続けている。彼女の身体には、試作段階時に埋め込んだバイオコードがあるからだ。試作段階といっても、それは完全なバイオコードとほとんど変わりない。ディスク開発に協力したトニー・スタークは、彼女が子供たちと同じように戦闘に参加するのを「少し待て」と止めた。彼女がバイオコードを埋め込んでいるのを知っているのは、まだ敵にはバレていない。ほぼ完全なバイオコードがあると知られれば、集中砲火は否めないだろう。とトニーは期を見計らっていた。

 実は先日、彼女の恋人の訃報がテレビで放映されていたのだが、普段テレビを積極的に見ない彼女は知る由もなかった。

 机の引き出しに入っている一つのディスクを取り出そうとして――そこで小さく、窓に何かが当たった音がした。

 彼女は小さく飛び上がり、鳥か虫でもぶつかったのだろうか、と椅子から立ち上がる。それから、淡い色のカーテンに手をかけると、一気にカーテンを引いた。

「!」

 そこには彼女の親愛なる恋人が、宙吊りになって手を振っていた。
 彼女は慌てて窓を開けると、その持ち前の冷静さで窓を完全に閉め切るまで黙り、閉め切った後に歓喜をにじませながら「ピーター」と恋人の名前を呼んだ。

 蜘蛛を模したヒーロースーツをまとった彼――スパイダーマンもといピーター・パーカーは、マスクを取りさると「ただいま」とに微笑んだ。

 はそのまま、ピーターに正面から抱きついた。年下の彼の匂いをめいっぱい吸い込んで、そのままの体勢でいる。
 ピーターといえば、数秒固まっていたが、そのまま無言で甘えるように彼女の首筋に顔をうずめる。身体をつければ、心臓の鼓動が重なり合うようだった。の背中に手を回して、年上の彼女の思ったよりも小さい身体を抱きしめる。肩胛骨に回した手袋越しの手のひらに、穏やかな呼吸の上下とぬくもりが広がっていく。ああ、帰ってきたのだ、とピーターは心の深いところでそう思った。

 が静かに腰辺りで結んでいた手を離し、そっと身体を離して顔を上げる。
 ピーターはなんでもなかったように、歯を見せて笑った。

「久しぶり、。元気にしてた? またコーヒー飲んでたんだね」
「元気。ピーターこそ怪我はない?」
「あれ、テレビ見てない?」
「テレビがどうかしたの?」

 がそう聞くと、ピーターは途端に脱力してしまった。はわけがわからなかったが、自分の知らない間に何かあったのだろうと踏んで、とりあえず「落ち着いて、コーヒー飲む?」と聞いた。変わりない彼女の様子に、脱力していたピーターは少しだけ笑った。

 がシンクから2つのマグカップを持って戻ってくるまでの間、ピーターは服をスーツの上から着て、手袋をはずした。とピーターは隣同士にソファに座り、小さくマグカップで乾杯をした。マグカップに口をつけると、インスタントコーヒーの香りが嗅覚を刺激する。
 一口飲んでから、ピーターは「む」との姿に目をやった。

「……あー、? どうしてパジャマ姿?」
「……」

 先ほどの再会の抱擁にかすんでしまっていたが、はペールグリーンのパジャマを着ていた。
 はコーヒーをすすって聞かなかった振りをした。ピーターの右眉がぴくりと引きつる。スパイダーセンスはないがイヤな予感はする。そしてその予感はおそらく大当たりだ。
 ピーターはマグカップをローテーブルの上においた。それから「!」と咎めるように名前を呼んだ。

「まーた寝てないの!? 本気かあなたは! それに着替えもしてない!」
「……多少は寝てるし、着替えもした。……ただ寝巻きしか着てないだけで」
!」

 ピーターは再び悲痛そうに叫んだ。それからため息をついて頭を抱える。
 はピーターと出会った頃から生活力がなかった。仕事一徹といえば聞こえがいいが、仕事に夢中になると、つい自分のことはおざなりになるのだ。カフェインを多量摂取しながら、寝る間も惜しんで着替えもしないでパソコンに向かう。ピーターに出会って付き合ってからは、「多少」改善したのだが。
 生活力という点ではピーターもと五十歩百歩だが、それでも「ああ、これはヤバいな」と限界には気付くことができる。は気付けないし、ほうっておけばその内パソコンに向かったままミイラになっていそうだ。

 ピーターは中身をこぼさないように、の手からマグカップを取り上げた。
 はおもちゃを取り上げられた子供のように、「あー……」とあからさまな落胆を見せる。

「僕が目を離すとすーぐこれだ! 全く、あなたって人は目が離せないよ、本当に!」
「…」

 しまったな、とでも言うように、彼女が小さく舌を出す。自分よりも年上であるの思いがけない幼いしぐさに、ピーターは一瞬を許してしまいそうになり、そんな考えを振り払うように彼女にのしかかった。それから彼女のやわらかい両頬を軽くつねってみる。も負けじとピーターの頬に手を伸ばした。
 ソファでもみくちゃになりながら攻防していると、彼女が泡を零すように笑い出す。笑いの振動がピーターのお腹にも伝わってきて、自然とピーターも笑顔になっていた。

 彼女の顔の横に手をついて、「心配した?」とひそやかな声で聞いてみる。影のさした彼女の顔が、まろやかな眼球が上目にピーターを捉える。

「……そんなに、心配はしてない」
「……」

 ピーターは少しだけ唇を尖らせて目線をはずす。
 わかっている。彼女はそういう人だ。その言葉は薄情ではなくて、深い信頼の裏づけなのだと分かっている。でも少しだけでも、と思ってしまったのだ。
 ごまかすように頭を振って、額をくっつけてから、彼女の上から退く。それから深いため息を抱え込んで、ソファのひじ置きで頬杖をついた。

 すると起き上がったが、ピーターの背中にくっついた。思わずピーターの肩が跳ねる。
 腹部に回った手は、白むほど握られている。

 はピーターの肩胛骨の間に鼻先をうずめるようにして呼吸する。ピーターの背中の一点だけが温かい。
 ピーターには見えないように、少しだけ眉を下げて、は切なさの滲んだ表情で震える息を吐き出した。

「でも、少しだけ、寂しかった、かなあ」

 がごまかすように、本音を滑らせる。それにとても胸が苦しくなる気がして、ピーターは思わず振り返り、を抱きしめた。
 さすがに今度は、の身体がこわばる。ぐいぐいとピーターが顔を肩口に押し付けると、跳ねた髪がの頬をくすぐり、唇がへにゃりと歪む。

「……あなたって人は……本当にもう……」

 押し殺したようなくぐもった声で言われ、が首をかしげていると、すっと膝裏にピーターの腕が差し込まれた。
 そのまま勢いでピーターがを横抱きに持ち上げると、は動物のように、反射的にピーターの頭にぎゅっと抱きつき、彼の視界をふさいでしまった。彼女の胸が僅かに彼の顔を圧迫しているが、彼女は知る由もない。
 そのまま安定感を求めて僅かに動き、腕をピーターの首に回す。ピーターも圧迫から開放される。
 未だにこわばった声音のまま、は「……重くない?」とピーターに聞いた。

「いいえ、別に」
「結構力あるんだ」
「僕着痩せするタイプだから」

 そのまま二言三言交わすうちに、の緊張も解けていく。重心が下がり、ハンモックに沈み込むようにの身体が傾く。こっそりとつま先をぷらぷら遊ばせながら、「どこへ行くの」と聞いた。少し照れているのか、素っ気無い響きがピーターの耳をくすぐる。もっと照れてくれてもいいのに、とピーターは少し残念に思ったが、それでも少しにやけてしまった。

「とりあえず寝よう。僕も疲れてだいぶ眠い……」

 ふああああ、とピーターは大口を開けてあくびをする。はネコみたい、とその口を見ながら思った。ふと、眠気が移ったのか、も小さくあくびをした。
 ぼんやりかすんだ瞳でお互いを見詰め合う。なんて平和な光景なんだろう、とピーターは思った。

 をシーツに沈ませると、瞳は半分まで降りかけていた。隣に寝転び頬を撫でると、は横を向いて手のひらに擦り寄ってくる。
 それがかわいかったので、彼女の頭の下に腕を差し込んで枕にしてやった。は確かめるようにピーターの腕を一撫ですると、顔をうずめて本格的に寝入り始めた。どうやら思ったよりも眠かったらしい。よだれを垂らされないといいんだけど、とピーターは笑いながらひとりごちた。

 頭の上のカーテンの僅かな隙間からは、青空がのぞいている。今日もいい天気だ。

 上がる口角をそのままに、ベッドに全身を預けるようにして、ピーターは目を閉じる。ベッドに吸い取られるように、身体が重くなっていくのが分かった。

 彼女の家を一歩出れば、ピーターはスパイダーマンになる。それでもかまわない。彼はそう思う。スパイダーマンを求める人々を守り、また彼女も守ることができるのならば。
 そしてまた、ここに戻ってきて、ただひたすらに彼女のぬくもりと抱擁を求めたいと思うのだ。