窓の外が満天の星空に変わるころ、はいつものように部屋の主を待つ。
 ふと足元にじゃれついてきた白猫を抱き上げて、どこから来たのお前と聞いても猫はひと鳴きするだけだった。

 扉が音を立てて開き、肋角が顔をのぞかせた。驚いた白猫はの腕を抜け、扉から出て行く。
 窓辺に佇むの姿を見つけると、肋角は吐息を漏らした。そんな肋角を見て、は静かに微笑む。

 肋角は机上の煙管に火をつけて、低く紫煙を吐き出した。部屋中に独特の香りが広がって、はその香りを少しだけ肺に吸い込む。この香りは嫌いではない。は自分は嫌煙家だと思っていたが、身近に吸う人がいると、あまりそう思えなくなった。むしろゆるいその煙が全身を包んで、生きている心地がするとは思った。
 窓辺で肋角とが向かい合う。青白い光がの真っ白な顔に差しこみ、まるで獄都の人間のようだ。

「今日は何をしていたんだ」
「いつもどおり。キリカさんたちのお手伝いをして、…あっ。それから、佐疫さんにピアノを教えてもらってた」
「そうか。今度聞かねばな」

 口ではそう言いながらも、肋角はにこりともしない。が丸い頬を膨らませてふくれた。
 は何も言わなかったが、その顔には不満の色があるのは肋角でも分かる。肋角は小さくため息をついた。

「どうした」
「いつもそっけないですね。どうして?」

 前はそうじゃなかった、という声が聞こえてきそうだった。
 の星屑がうつる瞳には、不満と、僅かばかりの期待が見て取れる。

 肋角からすれば、が自分や他の獄卒と親しくすることはあまり喜ばしいことではなかった。
 の射干玉の瞳から、肋角はそっと目を逸らす。

「…あまり関わらないほうがいい」
「なぜ?」
「それがお前のためになるからだ。こちらの世界のものと関わることなどないほうがいいだろう」


'


 はおそらく、この獄都でたったひとりの生者だ。

 生者であるはこの屋敷にある日突然迷い込んだ。屋敷から出ようにもなぜかはじかれてしまい、今は屋敷の獄卒総出で原因を探っている。
 この屋敷にはの出られる出口はない。と外界の接触は、屋敷に用のある人々を介することでしか成り立たず、いつしか外に一番近いその窓は、の定位置になった。

 出会った初めの頃、肋角にとってはただの客人だった。
 いつか外に出してやると、そう言ったときだけ顔に希望の色が広がるような女の子だった。

 まっすぐなは他の獄卒たちとも、通いの家政婦たちともすぐに仲良くなった。
 ただ、いつまで経ってもどこか距離を置いているのは見て取れた。

 獄卒は、生者を極端に恐れたり、逆にあがめたりすることはほとんどない。しかし、その逆は違う。

(「うちに、帰りたい…こわい…」)

 内側から出られぬ恐怖に、窓に追いすがって泣くを知るのは、知ってしまったのは、肋角ただひとりだけだ。
 星明りにきらきらと輝く涙が、漂う「生きているもの」の香りが、肋角の冷えて硬くなった心を掴んで、揺さぶった。

 だからだ。
 たかが一瞬、されど一瞬。肋角の中に、呑み込みそうなほど燃え盛る鬼火が姿を見せた。

 を帰してやりたい、笑顔を取り戻してやりたい、そう思う人の心と、が泣き叫んでも、ましてや自分を嫌っても、帰したくないと思う鬼の心がせめぎあった。
 どちらにも偏れない肋角は、結局考えなしに、泣いているを言葉なく慰めた。

 ただ、その時に向けられたの瞳が、自分の中を探るような、踏み込むようなそれであったとき、肋角は急に冷水を浴びたような気持ちになった。
 失態だったと、肋角は今でも思う。

 社交的なは、以前にもまして肋角に付きまとうようになった。
 他の獄卒の目から見ても、それは明らかなようだった。

(「は、肋角さんによく懐いていますね」)

 斬島の何気ない一言が、どれだけ肋角の肝を冷やしたか。
 の顔には希望が溢れていた。それは以前のものとは質が違っていた。

 そしてやがて、空を切り取ったその場所が、そこに佇む肋角自身が、の唯一安らげる居場所になっていく。――肋角は身の竦む思いがした。

「どうして? 私、肋角さんたちと過ごすの、楽しいよ」

 無邪気な言葉が肋角の胸をえぐった。
 もうは、ここを、何より肋角を、好きになり始めている。滔々と語るの頬がうっすら染まり、布越しにすらその高まる体温が分かる。だからいやなのだ。


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 完熟しただいだい色の日が暮れ、暗闇が辺りを支配する頃。

 恐いものしらずのが唯一恐ろしいと思うものは、そんな時間帯だった。逢魔ヶ時と魔物がでるからでも、あの世とこの世が繋がるからでもない。
 単純に、どこまでも逃げられない気がするからだ。走っても走っても、ずっと手のひらの上を這っているような、恐ろしい籠のように思われてならない。妙に落ち着いて静まり返った空気の中で、自分だけが必死に呼吸をしているような、息苦しさと孤独がある。

 この館も同じだ。ここには、生気も、居場所もない。

 だから以前のは、いつも眠りに就く前、外に一番近いその窓辺に立ち寄っていた。窓の外には満天の星が見える。外気に触れればきっと冷たいだろうに、嵌め殺しの窓ではそれすらかなわない。
 窓から見える木々は、なんと生命力に溢れ、さざめいていることだろう。獄都だからか、木からは多少の得体の知れなさも感じられたが、はそれでもその木が好きだった。
 いつか外に出てみたいと、そう思ってやまなかった。

 けれども、いつからだろうか。肋角を見ると安心できるようになったのは。自分の情けない恐怖心まで、肋角には包容されているような気がするのだ。
 あの日涙越しに見た熱情の瞳が、幻ではなかったらいいのにと、はそう思う。

 高鳴る胸はきっと恐怖ではない。きっとこの人は私を逃がしてくれる。
 けれど、そうでなくても――この人と一緒ならば、逢魔ヶ時は安寧のものへと変わる。こわくない。白い布が染まるように、恐怖を受け入れることができる。

 黙り込んでしまったに、肋角がぽつりと問いかけた。

「こわいか」
「…ううん」

 にはわかった。それはかつての、籠へ囚われることへの恐怖に対する問いかけであるということが。
 はどきりとしたが素直に答えた。そして心の中でそっと、肋角さんと一緒なら、と付け足す。

 しかし、心酔するように小さく呟いたの様子とは裏腹に、肋角は眉を顰めた。

 肋角はの顎をすくうように掴む。それは乱暴なしぐさで、目の端にはわずかに鬼の色が走っていた。
 それでも、まどろむように蕩けたの瞳がまっすぐに肋角の瞳を見つめている。そんな目で見るな。肋角は思わずそう思った。

「お前はここから出て行く。そうしたら、全部忘れろ」
「…」

 に、何より自分に言い聞かせるようにそう呪いをかける。
 くゆる煙がを絡めた。

 が躊躇うように瞼を伏せる。まつげが蝶の羽ばたきのように揺れている。
 は知らないのだ。己の内に鬼を飼う肋角のことなど。肋角の心臓を一皮剥いてしまえば、を攫ってしまいたい気持ちが唸り轟いている。

「肋角さんは、私がいなくなっても寂しくないんですか」

 肋角は何も答えなかった。が震える。
 嘘をついても、本当のことを言っても、自分を抑えられないと肋角は思った。

「私は寂しい、」

 がそっと手を伸ばし、肋角の背中に回す。小さな額は、肋角の胸下にぴったりとくっつく。小さな体が、そっと肋角に委ねられた。

 は恐いものしらずだ。こうして人の心をかき乱し、己の鬼を暴こうとするのだから。
 けれどが思うほど、自分は「優しい父」ではないと、肋角は思う。

 肋角は恐ろしいのだ。自ら闇に飛び込もうとするが。

 の無謀さには空恐ろしいものがある。肋角が気持ちを許せば、2人で深海の底へと沈みこんでしまいそうな、深い、けれども軽率な恋慕がそこにある。
 そしてそれはきっと、のためにはならないだろうと肋角は思う。

 は生者だ。だが自分は獄卒だ。
 身分や性別よりももっと深い虚が、ぽっかりと空いている。

 にはこの苦しみがわからないと思うと、少しばかりの憎さも湧く。
 いっそのこと、全てを暴いて知らせてやりたい。そうして、が「間違ったのだ」と思ってしまうほど、深く深く、愛してしまいたい。

(お前は知らないだろう。そんな薄汚れた俺の気持ちなど…)

 肋角はそっと目を伏せた。数秒、ぐるぐると欲望が渦巻く。赤電灯は危険のひかりを示す。肋角の瞳は、それと同じ色を孕んでいた。
 再び目を開けたとき、肋角は「優しい父」に戻っていた。

「おやすみ」

 そう言って、まるでなにもなかったかのように、の体を離した。
 は傷ついた顔をしていたが、肋角にはどうすることもできない。

 完熟した果実はやがて腐り落ちる。
 その前に早く、誰かが攫ってやってほしい。

 哀れな鬼に食われる前に。